コンピュータネットワークの時代と「秀才」





真面目に仕事してれば、それなりに給料をもらえていた時代は終わった。そういう人間がもてはやされていたのは、真面目なホワイトカラーが社会的に必要とされていたからである。それは、産業革命以降の産業社会の歪みが産み出した、人類史上のあだ花といえる。生産力の拡大に、情報処理がついてゆけなかったため、労働集約的に情報処理をしなくてはならず、大量の人間を必要としたからだ。

読み書き算盤ができる多数の真面目な人間と、それをマネジメントする真面目な秀才。それは、いわばRAMとCPUを人海戦術で代替するものであった。まさに人間系で、コンピュータのシミュレーションをやっていたのだ。コンピュータとネットワークがケの存在になった今では、そういう人たちはもう必要ないし、存在意義がないのは明白である。

真面目にやっていても、もはや可能性はないのだ。そういう生きかたでは、終わりのない日常を一生くりかえすだけである。しかし、それは人間が存在意義を失うことには繋がらない。秀才ができることは、すべてコンピュータで処理できる。だが、天才が産み出すものは、いかにコンピュータが発達しても対応できない。求められる人間類型が、産業社会の時代とは変わるということなのだ。

倫理的な是非はさておき、純粋に経済的に考えれば、特攻隊や自爆テロは、無人攻撃機や攻撃ロボットを製作するコストと、人間一人のコストと、どっちが安いかだけである。貧しい社会では、人間のほうがコストが安い。だからそういう国々では、肉弾攻撃が登場する。それと同じことである。秀才を集めた方が、機械よりコスト的に安ければ、秀才が重用される。機械の方が安ければ、秀才を使う理由はない。

こんなことは、パソコンやネットワークが生まれた1980年代から、わかっているヒトにはわかっていた。まだ、コンピュータの処理速度や記憶容量に限界があったから、実用という面では、秀才がその情報処理力の高さからもてはやされたにすぎない。今となっては、どんなにガリ勉の秀才でも、情報処理速度は高性能パソコンにかなわないし、知識の量もインターネット上の情報にはかなわない。

これは、秀才の典型である官僚のメンタリティーを考えてみればわかりやすい。官僚と仕事をしていると、彼らの意識やメンタリティーが非常に読みやすく、次の一手でどこを狙ってくるか、手に取るようにわかる。もちろん、彼らも表面的にはフェイントをかけてくるが、作戦というか、狙いどころは見え見えである。

彼らが重視する 形式要件 は、まさに、コンピュータがチェックするポイントと同じである。蓄積した前例を踏襲し、それを踏まえた判断を行なうことなど、コンピュータならば、より大量の前例を踏まえた結論を、より高速に導き出すことが出来る。というより、そもそもコンピュータはそういう形の判断しか出来ない。その処理量と処理速度が桁違いなので、何かを生み出しているように見えるだけである。

官僚といえば、白黒というか、善悪、タテマエ・ホンネ両面を使い分けるのが特徴だ。しかし、そのどちら側もコンピュータ化できるし、その使いわけもコンピュータの方が一枚上手である。チェスや将棋のプログラムのように、全ての条件分岐に対して、相手の打ってくる手と、その結果を読みきってしまえばいいからだ。

彼らが得意とする、社会正義を実現しているようなタテマエの裏で、自分達の利権と権限を拡大するようなザル法の条文作りも、機械のほうがより上手だ。少なくとも、プログラミングした時点で想定されるツッコミを、全てゴマかしきって躱せるようなパスを見つければいいのだから。これも「自分より頭の悪い人間を騙すことは容易」という掟にしたがっている。

だからこそ、ハッカーはそこを突く。機械の側から見ると、形式要件を完全に満たしていれば、OKになる。そこをクリアしてしまえば、あとはやり放題である。官僚は、自らマッチポンプで、こういう両面性のある法律を作る。それでバレないと思っているが、笑止千万である。秀才よりテストの点では負けるかもしれないが、モノゴトの裏を読むのが得意な地アタマのいい天才は、いくらでもいるのだ。

そういうヤツの手にかかると、最初からビルトインされていた法律の抜け穴なんて見え見えだし、法律を作った側が思っても見なかったような「利用法」も発見できる。そういう、なんでもありの実力勝負になると、秀才は実に弱い。勉強したことのないこと、知識のないことについては、秀才は無力である。これに対し、地アタマのいい天才は、ゼロから答えを生み出すことが出来る。

おまけに、努力の成果の秀才と違い、そいつらは天性の才能なのだ。すでに日本は情報化社会になってしまった以上、産業社会の掟は通用しない。秀才がもてはやされ、勉強していい成績をとればなんとかなったのは、産業社会のコトワリである。はっきりいって、そういうタイプの人間は、これからの日本には必要ない。もっとも開発途上国よろしく、機械より安く仕事をこなせるなら、それなりの働き口はあるかもしれないけれど。


(14/08/29)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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