権力のせいにしたがる人





少なくとも20世紀以降に、ある程度以上経済が発達した国において成立した権力は、18世紀の階級社会をベースにした絶対王政のような超然権力ではありえない。大衆社会化の波がグローバルなトレンドとなった19世紀末以降、ある意味でこれは動かしがたい事実である。確かに独裁的な権力は存在するが、それは18世紀以前の独裁権力のように、超然権力として大衆と関係ないレベルで発生した物ではない。

頂点に独裁者を抱くナチズムやスターリニズムを含めて、これらの権力は、誰も望んでいないものを権力者が力により強制したのではない。大衆社会における権力は全て、明らかに多数の大衆が求めたからこそ、民主主義の数の論理の先に現れてきたものである。ストレートにいえば、人々が望んでいるものを結果として実現したにすぎない。大衆が独裁を望んだから、独裁的権力が生まれるのだ。

それを、ヒトラーやスターリンの個人責任にすり替えてしまう議論が横行しているのは、大衆が責任を取りたくないことによる。その権力を生み出した大衆の責任を問われると、自分も責任を負わなくてはならない。それは絶対にイヤだ。だからこそ、責任を個人に押し付ける理屈が横行する。独裁者だけを悪者にすれば、それを熱狂的に支持した大衆は責任を問われずに済む。

結局のところ、ドイツ人もロシア人も、庶民は「甘え・無責任」なのである。日本人と何ら変わることがない。逆にいえば、そういう「甘え・無責任」な大衆が多数を占める国においては、独裁的権力が生まれやすかったともいえる。同様に、差別的な政策がとられるとすれば、多くの人々がそれを望んでいるからである。排他的な政策がとられるとすれば、多くの人々の心の中にそういう発想があるからである。その責任を認めたくないから、権力が必要になる。

独裁者といえども、それがポピュリズムを背景として政権の座についている以上、大衆の求めるモノを無視できない。いや、大衆の求めるモノを積極的に具現化しているからこそ、独裁的な権力を持てているといった方が正しいだろう。そういう構造だからこそ、大衆がいやがる政策を、権力が押し付けることは不可能である。卵と鶏ではない。この因果関係は明白である。無責任な大衆が、権力を強くするのだ。

もっとも、少数者がいやがる政策を多数者が求め、民主主義の数の論理で正当化されることはある。これも少数者から見れば「権力の横暴」と映るかもしれない。しかし、これは権力の横暴ではなく、多数派の横暴なのである。これは民主主義というシステムの持つ構造的問題であって、権力の問題ではない。こういう構造であるからこそ、もし独裁者がとんでもないことをしでかしたとすれば、それは独裁者個人ではなく、数の多い無責任階級である大衆に決定権を与えてしまったことが問題なのだ。

20世紀型の独裁は、無責任な庶民に主権があってはじめて成立する。というより、大衆一人一人が、本来自分が負うべき責任を誰かにぶん投げはじめると、その責任を集めた人間の権力は巨大化し、独裁者となる。この法則は、最後まで貫かれる。大衆は、全ての責任を独裁者になすりつけ、自分は潔白な被害者を装う。なんでも権力のせいにしたがるのは、それを主張する方も、自分で責任を取りたくないからだ。

責任を逃れるには、権力の責任にした上で、私はやってないと責任を曖昧にしてしまうのが一番いい。かくして悪いのはあんたとばかりに、責任をみんな権力の側におっ被せるようになる。これにより、権力はますます肥大する。そうなれば、ひとまず「権力が悪い」と言っておけば、自分の責任はうやむやにできるようになる。これが、権力を生み出すのである。「自立・自己責任」な人間の集団では、全てセルフヘルプなので、権力は生まれようがない。

また、20世紀以降の大衆社会国家においては、権力を執行する行政側の構成員にも、構造的な問題がある。19世紀までの、有責任階級である貴族等だけが権力を握っていた、階級社会をベースにした国家とは根本的に異なる点である。すなわち、大衆社会国家において権力機構を支える官僚達は、単に偏差値が高い秀才というだけで、育ちは大衆そのものである。彼らのメンタリティーや価値観は、マスのボリューム・ゾーンである大衆の側にある。

これもまた、大衆のボリュームゾーンが望む政策を権力の側が執行するメカニズムの一翼を担っている、同様のメカニズムは、企業ガバナンスでも起こっている。オーナー社長やファウンダー社長は、責任を取って腹をくくって決断できるし、しなくてはいけないという使命感を持っている。しかし、社員とメンタリティーがかわらないサラリーマン社長ではそうは行かない。何一つ決断できないし、何一つ改革できない。果ては、ステークホルダーの意向を無視し、「社員のための会社」にしてしまう。

もし本当に権力に反対したいのであれば、権力に頼らないのが筋である。権力など、人々がシカトしてしまえばすぐに弱体化する。反権力を装い、権力に反対するような主張をする人ほど、実は権力に頼り、権力に甘えようとしている。要は、自分にも甘い汁を吸わせて欲しいし、バラ撒いて欲しいだけなのだ。その恩恵にあずかるためには、権力側が強く大きいほうが都合がいい。これがまさに、大きな政府を求める人達の正体である。

「親方日の丸」で甘い汁を吸いたがり、「寄らば大樹の陰」で脛を齧りたがる。こういうヒトたちは、自分が分け前から疎外されると、すぐ権力を攻撃する。それは権力に反対するのではなく、自分もその分け前がほしいというだけなのだ。何でも権力のせいにしたがる人は、そもそも権力におんぶにだっこされたい人達なのだ。ここをきちんと見極めて話を聞くことが大切なのだ。


(14/09/05)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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