褒め殺し?





ここのところ、朝日新聞を論破して、鬼の首を取ったように有頂天になっている人たちがいる。しかし、世の中的にはすでに「中央紙」というメディア自体が、無意味で存在感のないモノになっているわけで、「そもそも新聞なんて読まないし必要ない」と思っている、多くの日本人にとっては、まさに「目糞、鼻糞を笑う」ような滑稽なできごとである。新聞に権威を感じる人達こそ、時代の流れを感じ取れない井の中の蛙である。

新聞の凋落は、大本営発表の「部数」でなく、新聞社の決算数字をみればすぐにわかる。それは巷間語られるように、プリントメディアがオンラインメディアに取って代わられたからではない。新聞社もオンラインメディアは積極的に手がけている、しかし、そこにも人は集まらないのだ。新聞社が凋落したのは、自分だけが世の中が見えていて人々を啓蒙してあげようという、その「上から目線」の論調が、人々から疎ましがられているからだ。

朝日新聞には、すでに社会的影響力も存在感もないのが実態である。ブランド力があるターゲットがいるとしても、それは団塊世代以上、60代後半以上だけである。確かにシニアの数は多く、消費者としては無視できないが、もはや現役で生産にかかわっている層ではない。さらに20代以下の若者は、そもそも朝日新聞なんて読んだことない。もちろん読売新聞だって読んだことない。新聞など読まないのが当たり前なのだ。

中央紙新聞の社会的役割自体は、現代日本ではもはや終わっている。しかし、それでも朝日新聞を攻撃、批判する人がいる。なぜそんな酔狂なことをするのか。それは、そういう人達は、敵役がいないと自分の立場がなくなってしまうからだ。そんな存在感のない新聞を攻撃対象にするしか自分のアイデンティティーを確立できない人達も、考えてみればかわいそうである。

しかし、敵がいて、その敵が強い(と思われる)ことで初めて、自分達の存在をアピールできる人達は確かに存在するのだ。こういう連中は、自分達の存在感を示すためには、自分達だけで何かしてもダメで、外側に敵が必要なのである。これはとりもなおさず、自立していないことに他ならない。相手に甘えて持たれかかって初めて、自分の居場所ができる。こういう人達が、結果的にわざわざ権威が失墜しているものを自ら祭り上げ、延命させている。

褒め殺しならばまだしも、強い敵役がいなくては困るので、相手を実力以上の存在として持ち上げて見せるのに必死になっている。それににより、かえって本来なら自滅しているはずの相手を復活・再生してしまっている。一見、これは矛盾に見える。しかし、相手がいなくては自分の存在自体を肯定できない依存症である以上、相手を殲滅する気はないし、そんなコトは、自己否定と同値になってしまう。寄生する主が死んだら、寄生虫は生きていけなくなるのと同じだ。

同様のジレンマは、安倍首相を執拗に攻撃している人にも見られる。安倍首相本来のキャラは、第一次内閣の時に見られたように、格好はつけるけど、それほど強く主義主張を押し通すヒトではないところにある。そういうイメージがあるとするならば、それは明らかに意図的に作られたものである。いい人だとは思うが、強い意思やリーダーシップの人ではない。その分、お神輿として、周りからかつがれやすい。

第一次内閣では、安倍氏に近い自民党内の中堅層が担ぎ上げた。このため、結果的にお友達内閣になってしまった。担ぎ上げた人達も一枚岩ではないため、誰もリーダーシップが取れず、バラバラになって崩壊してしまった。第二次内閣は、実現した政策・法案をみればすぐわかるが、完全に官僚に担がれている。改革逆行・利権拡大内閣である。それをカモフラージュするために、カッコよくて勇ましいことを言わせられているだけである。

そのように、実態の希薄な首相というのがホンネである。しかし、それでは安倍首相を攻撃しても、鬼の首を取ったことにはならない。だから、安倍首相が稀代の悪玉であってほしいと願っている人達がいる。それは、何にでも反対することでしかアイデンティティーを発揮できない人達だ。反対する相手が強ければ強いほど、自分達の存在感は高まる。このため、相手が実態以上に強く見えることをいつも期待している。

かつての「革新」政党の流れを汲む人々や、平和運動・市民運動などを標榜している人々だ。こういう人達がやっているのは、ちょうど「裸の王様」の逆である。「張り子の虎」も、猛虎に見せたいし、そうなってほしいと願っている。強い敵役としての相手がいなくては、自分のアイデンティティー自体が失われてしまう。ある意味、対立しているように見せかけて、持ちつ持たれつだったりする。

その典型が、かつての文部官僚と日教組だろう。この両者は、激しくイデオロギー的に対立しているように見えても、学校利権を守り拡大して行こうという点においては、完全に一身同体であった。対立が激しければ激しいほど、共謀している利権が見えにくくなるし、利権構造の問題点が語られることもない。対立をアオること自体が、その利権構造をカモフラージュすることが目的だったとさえいえるだろう。

なんとかいって、日本にはこういう人が多いし、こういう事例が多いのだ。対立しているようでも、自分自身の独立したアイデンティティーがない分、依存し合い、寄りかかり合ってはじめで自分の居場所を確保できる。金をいくら積もうが、英語がいくらウマくなろうが、日本人が一向にグローバル化できない理由は、この自分のアイデンティティーのなさにある。「おままごと」にうつつを抜かしたい人は、勝手にやっててくれ。でも、いつまでもそんなヌクヌクした環境が続くと思うなよ。


(14/09/12)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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