「自分の足で立つ」ということ





他人の意見の受け売りではなく、きちんと自分の目でモノを見て、自分の意見を持っている人は、ちがう意見の人とも共存できるし、妥協できる接点を見いだすことができる。それは、自分の意見を持つことは、まさに自分の足で立っているのと同じで、自分一人だけでも、自分の絶対位置がわかっているからだ。だからこそ、そこから相手との関係性を組み立てていくことが可能になる。

これに対し、相手との相対的な関係のなかでしか、自分の居場所や立ち位置がわからない人達がいる。自分の意見を持っていない人達である。こういう人達は、誰かオピニオンを持っている人のそばにいることでしか、自分の居場所を確認できないし、自分の位置関係を認識できない。だから、他人との関係においても相対位置しか知ることはできず、絶対位置など知る由もない。

このように、自分の意見を持たず誰かの意見に依存してしか自分のスタンスを持てない人間は、違う意見の人と出会うと、どう対応していいかわからず、自分のアイデンティティーを見失う危険性を感じることになる。このため、相手の意見ひいては相手の存在を認めることができない。それだけでなく、自分の立場を守るために、自分と違う意見を持つ相手に対しては、ことさら攻撃的になる。

反戦平和運動、反核運動、市民運動、人権派といった人々は、このように自分の意見を持っていないがために、自分と異なる意見の持ち主に対して攻撃的になる典型例である。彼等の主張は、もともと理論的支柱が曖昧な、極めて感情論的なイデオローグである。そのイデオローグにイメージ的に惹かれて、借り物のアイデンティティーを得ているのが、このような運動の支持者の特徴である。

だからこそ、そのロジックも脆弱なら、依って立つ関係性も脆弱である。多分、この弱さを本能的に感じているからこそ、対立意見を先に攻撃することで、自分達の立脚点の弱さを補強しようとしているのだろう。攻撃こそ、最大の防御というやつだ。まさに、違う意見に対しては聞く耳を持たない。だから、こういう人達は、何にでも反対する。反対のための反対が、自分達のアイデンティティーとなってしまう理由である。

ある意味これは仕方がない。自分達の信念が、そもそも空洞なのだ。自分に中身がないからこそ、外側からアイデンティティーを借りてこようとする。まさに「他人依存症」である。こういう人達が自分の存在を自己認識するために一番手っ取り早いのは、「権威」に頼ることである。権力を攻撃するわりに、自分達も権力にすがって守ってもらおうとする理由は、ここにある。だから外在的な権威がないと、自分達の存在自体を肯定できなくなってしまう。

これでは、いつまで経っても自立できない。では、自分の意見を持つためにはどうしたらいいか?悲しいかな、それは生まれと育ちで決まってしまう。学校や教育で、後天的に努力してどうにかなるものではない。少なくとも、自分の意見を持っている親の下で育たなくては、自分の意見を持つようにはならないのである。そして、自分の意見を持っている人間のほうが、日本では少数である。

本来なら、自分の意見を持てない人は、持っている人の旗印の下に参集すべきである。自分がぶる下がるしかない人間であることを自覚して、きちんとぶる下がるべき相手にぶる下がればいい。それが、持っていないもの同士、よりかかりあったり、表面的に対立したりすることで、あたかも自立しているかのごとく装っている。この偽装が問題なのである。

社会の情報化が進み、フラット&オープン化が進むと、受け売りで自分の意見のごとく装っても、すぐに化けの皮がはがれてしまうようになった。インタラクティブな情報環境では、自分の意見を持っている人と持っていない人の落差は顕在化する。技術的には、誰でも同じように書き込むことが出来る。機会の平等は完全に担保されている。その分、そのコンテンツがウケるかウケないかは、誰の目にも明らかなシビアな環境になる。

自分の意見を持っていなくてはいけないわけではない。そんなのは大多数の人にとっては無理である。自分の意見をもてない人間の方が、圧倒的に大多数なのだ。そこではなく、自分の意見を持っていないくせに、あたかも自分の主義主張があるかのごとくに偽装することが問題なのだ。自分の意見を持っている人を尊重し、持っていない人は、ためらいもはじらいもなく、その旗印の下に集まれる。望むべき環境はそういうことだろう。


(14/09/19)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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