素直にモノを見れない人





マーケティングの極意は何だろうか。長年の経験からいえば、それは、見たまま、あるがままを、素直に捉え受け入れることである。マーケティングとは、決して理屈や知識の話ではない。しかし、素直に現実を見れば答えがすぐそこにあるものでも、小難しく考えてしまうから、「困難な課題」になってしまう。というより、難しく感じる人、答えが書いてあるのが見えない人は、自分で話を難しくしているのに過ぎない。

日本人には、なぜかこの「物事を素直に見られない人」が多い。特に男性、その中でも努力家の秀才に多い。そう考えると、この理由は社会的・文化的な要因に求めるべきだろう。こういう人は、勉強した理論の上でしか、世界を把握できないのだ。何も考えなくても答えはそこに書いてあるのに、いちいち理論にてらし合わせて、その枠内で把握しないと理解できない。

一番問題なのは、本に書いてあるのと同じであってはじめて、納得し、理解できる点である。「事実は小説より奇なリ」ではないが、この世の中、正解や実体は現実の方であって、理論や知識の方ではない。現実は、例外の渦なのだ。ニュートン物理学が「摩擦=0」を前提に理論を構築するように、理論的な世界の方こそ実は有り得ない世界である。現実の問題を解決するのに、理論は何も役に立たない。

こういう世の中の捉え方をしていたのでは何も発見がないし、新しいモノが生まれる余地ない。文字通り「想定内」のことを繰り返す以外、能がなくなってしまう。理屈や知識は、実学には役に立たないのだ。工学でも、物理学の理論より、現場の職人的経験値のほうが問題解決に役立つことは多いのだ。もっとも、秀才の行動様式がそういう前例主義なのは、官僚のメンタリティーを見てみればすぐわかることではあるが、

少なくとも現代の日本社会においては、女性の方が、そういうしがらみなくあるがままにものを見れるコトは間違いない。だからこそ、80年代以降モノ作りにおいて「マーケット・イン」が求められるとともに、ことあるごとに女性の視点が求められたのだ。女性にも理屈や知識でしかモノを見れない人はいるが、その比率はとても少ない。そういうタイプの方が多い男性とは大きく異なる。

はっきりいって、そういう「秀才」の男性は、自分の目でモノを見たことがないのだ。確かに、網膜には何らかの画像が物理的に写っているかもしれないが、それの意味するところを読み取ることができない。それでは、「見えている」ことにならない。これはまさに、文化的文盲、社会的文盲である。地アタマがいい人はさておき、努力家・勉強家の秀才男性は、みんなこの文化的文盲、社会的文盲である。

日本の秀才には、グローバルレベルはもちろん、国内においてもコミュニケーション力が劣る人が多い。これも、このあるがままを素直に捉えることができず、ステレオタイプにあてはめてしか理解・把握できないことが原因となっている。それはそれで、秀才の周辺で彼らをフォローするいろいろなビジネスを生み出す要因となっている。しかし、全体的にみた場合には、損失の方が大きいといわざるを得ない。

日本の製造業で、いつまで経っても「マーケット・イン」が実現しない理由もこれ。文化的文盲、社会的文盲の秀才が、マーケティングをヤろうとしているからだ。彼らには、ターゲットの実像が見えていない。多くのメーカーがターゲットとしているのは、理屈で捉えたステレオタイプなターゲットか、実態ではなくターゲットはこうあって欲しいという送り手の側の理想像か、どちらかである。しかし、そんな人など実在しない。

これでは、本来のターゲットのニーズと解離するのが当然である。まあ、それがあるからマーケティング・コンサルティングがビジネスとして成り立つのも確かで、そういう意味ではずいぶん稼がせていただいたのも事実だが。しかし、実はこのような「マーケット・イン」を実現するマーケティング機能こそ、、先進国の製造業にとっては、技術以上のコア・コンピタンスなのである。

マーケットを読みきる力があれば、ファブレスでも製造業たり得る。逆に技術がいくらあっても、それだけじゃEMSのファクトリーになるのが精一杯。これが世界のオキテである。スポーツとかで、日本選手が力量があるワリに、勝負弱いのも同じ原因である。技があるのに勝てないのは、ちゃんとリアルな相手を見つめられないから。技術があるのに売れる製品を作れないメーカーとうり二つの相似形である。

なんでこうなってしまったのか。それは、文明開化以来「追い付き・追い越せ」が日本の目標になり、それを実現するためのもっとも効率的な方法として、知識主義が横行したからだ。確かに追いつくまでは、知識があればなんでも解決できる。しかし、追い付いて追い越した瞬間に、それでは解決できない課題が山積になる。今までの日本人は、その時どうするかを考えていなかった。そして、「その時」はもうやってきてしまった。

さあ、どうしたらいいか。それはまず、世の中には「理屈や知識」では解決できない問題のほうが多いという事実を認めることである。そして、そういう問題にソリューションを提供できるのは、努力の秀才ではなく、生まれながらの天才だけだということを理解することだ。日本人に天才が少ないわけではない。一定確率でいるコトは間違いない。そういう存在を、社会的に重視し、大事にする。そういう世の中を目指すべきなのだ。


(14/10/03)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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