メディアの勘違い





素人さんには、メディアに載っただけで、天下取った気になってしまう人がよくいる。昔ならテレビや新聞に取り上げられることは、それなりにステータスになったのかも知れないが、世の中に情報が溢れている現代では、そう簡単には問屋が卸さない。出たからといって、見られるわけでない。見られたからといって、ウケるわけではない。そう、情報はウケてナンボなのだ。メディアに載るのは、その入口、前提条件の一つでしかない。

しかしこのような勘違いは、メディア自身も同じだから困ってしまう。メディア自身が、自分には特別な力があるという思い込みから脱せないのだ。最近の朝日騒動に関する、他の全国紙や出版社系総合週刊誌のはしゃぎっぷりを見ていると、なにか根本的なところで勘違いをして媒体社自身が思い上がっている様子が鼻につく。この騒動自体が、自分達の影響力を過信しすぎていることから始まる茶番であることに、全く気付いていない。

そう、未だに多くのメディア、特に印刷系メディアが、ふんぞり返って読者をバカにする「超・上から目線」でモノを語っている。その「上から目線」が、読者の新聞離れ、活字離れを引き起こしていることに気付かないのか。読者が離れていく原因は、読者の側ではなく自分達の側にあるのだが、上から目線に立つ限りこの問題に気付くことはできない。あくまでも、主体は自分達で、読者は従属物だと思っているからだ。

それらのメディアがこれまた勘違いしてライバル視している、ネット上のニュース情報の多くは、情報の形式としては、活字メディアと同じテキストと画像というスタイルである。映像がついているものもあるが、使いかたとしては、動画も静止画と同じであり、ただ動いている分多少情報量が多いというだけである。これがわかっていれば、その形式が問題なのではなく、内容、提示の仕方に問題があることはすぐわかるはずである。

この受け手と送り手の意識のギャップには、いかんともしがたいモノがある。だから、新聞は見限られているのだ。件の朝日騒動だってそうである。新聞社や出版社は、妙にリキが入りまくっているが、読者はシニカルに見ている。はっきりいって、そんなの関係ない。どうでもいいことで意地を張り合っても、面白くもなんともない。内ゲバは、「中のヒト」以外、誰からも支持されないのだ。

それは、貧しく情報にも飢えていた頃とは違い、メディアの側がいくら押し付けようとしたところで、人々は聞く耳を持たないからだ。人々は、自分の口に合わないモノは、絶対に食べてくれない。豊かな社会は、そこが貧しい社会とは違うのだ。エサをバラ撒いたところで、けっして食べてはくれない。喜んで食べる人もいないではないが、それはみんな貧民だ。それなりに安定している人々は、無視して通りすぎてしまう。

今や日本は、そういう世の中の構造になっている。このところ何度も言っているが、それは素直に見りゃわかるコトだ。しかし、知識からでしかモノを見れない秀才にはそれが見えてない。新聞社の人間など、その典型だろう。ジャーナリズムの基本は、現実を客観的、かつクールにあるがまま捉えることだ。それがあってはじめて、現実を肯定するなり否定するなり、それぞれのオピニオンが成り立つ。

しかし、日本の新聞報道は多くの場合、知識をベースに観念的に主義主張を語るだけ。これはプロバガンダであって、ジャーナリズムではない。元々が自由民権運動の機関紙からスタートしたという日本の新聞の出自が、脈々と受け継がれているのだろうか。自分の言葉に、傲慢なまでの自信を持ちすぎている。だがそれは、単なる思い込みだ。客観的に見れば、いろいろある多様な意見の一つでしかない。

新聞の記事も広告も折り込みも、生活者にとっては情報という意味では等価である。そして、その価値は受け手が決める。この傾向は、日本においてはこの20年ぐらい明確に現れてている。ちょっと調べてみれば、すぐにわかるような事実である。そして、広告や折り込みは、金を払えば誰でも出せる。記事も実はそのレベルである。要は、記事に特別な価値があるわけではない。受け手からすればそうなのだ。

これもまた、マーケットが受け手主導になったにもかかわらず、送り手がそれを認識できないまま、プロダクトアウトを続けてしまうという、日本企業に共通する悲劇の産物である。何のことはない、メーカーの「日本病」と同じなのである。ビジネスモデルを、高度成長期の社会に最適化しすぎたため、そこから抜け出られなくなっている。良く言われる「成功体験が足を引っ張る」というヤツである。

数をとりたいなら、通信社機能に徹し、加工しない生の情報を高い鮮度で届ければいい。たとえてみれば、水産会社、畜産会社である。これは、スケールメリットが出る。一方、自分の意見を聞いてほしいなら、数は追うな。たとえてみれば、レストランのオーナーシェフだ。この両者は、根本的にビジネスモデルが違うのだ。これを理解してわきまえて事業を行なえば、それなりに新聞社も生き残れるだろう。しかし、道はまだまだ遠そうだ。


(14/10/17)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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