スゴいヤツにはかなわない





近代以降の日本は、社会全体としては、職人を過大評価し、芸術家を過小評価してきた。この場合、職人は技術者と言い換えてもいい。明治維新以降の文明開化・和魂洋才政策の中で、欧米の技術や知識をいち早く吸収し国産化しようというニーズと、江戸時代の「士農工商」に代表されるような、実を取れることをやっている方がステータスがあるというマインドが、妙な形で融合してしまった結果である。

それはとりもなおさず「追い付き、追い越せ」だけを追い求めてきた、近代日本の限界でもある。同じことは、日本に追い付き追い越すことを至上の課題とし、日本以上の高度成長を成し遂げた現代の韓国についても言える。本当にあらゆる面で日本に追い付き追い越してしまうと、目標がなくなってしまう。日本が憎きライバルとして立ちはだからないと、成長のエネルギーが得られないのだ。

更なる成長のためには、悪の権化である日本が常に立ちはだかって、韓国をイジメてくれなくてはならない構造なのだ。日本を必要以上に過大評価し、それに反発する精神を養い、溢れるエネルギーの源とすることが必要になる。ここに、「反日」が必要な理由がある。言いかたを変えれば、「気にしすぎ」である。韓国は、世界的に見れば、日本など必要以上に気にすることもない「大国」であるにもかかわらずだ。

実は、これは日本にも言えることである。もはや欧米のマネをしてもはじまらない世界の一流国になっているのに、いまだに欧米をベンチマークしリファレンスを求めマネしようとしている。これでは、体だけは立派な大人になっても、精神や知能は子供のままという、「大きなお友だち」と同じではないか。知識や訓練を重視する限りは、この「世界の中の大きなお友だち」を脱することはできない。

そして「世界の中の大きなお友だち」の最大に愚かな点が、職人や技術者の重視、知識や努力の偏重である。こつこつ真面目にやればなんとかなる。それは開発途上国のやり方である。先進国は、先人のマネでは喰っていけないし、居場所が与えられない。職人や技術者ができることは、エマージングカントリーに任せればいい。同じことを安く出来れば競争力になる。しかし、その差別化のポイントは、安いところしかない。

もはや日本が、技術や職人芸で立国するなどあり得ない。それは、もう一度貧しい開発途上国に戻るというコトを意味する。この期に及んで、モノ作りの復活などというたわごとを叫んでいる連中は、根本的に間違えている。いや、間違えているのではなく、自分達の既得権がなくなることを察知して、必死にしがみついているのかもしれない。しかし、それが日本の舵取りを誤らせるのだ。

スポーツ選手のライフステージを考えてみよう。どんなに名選手であっても、熟年になってまでも、若手の選手と現役選手として張り合うことはできない。あえて現役にこだわり無理強いするのは、醜悪でさえある。自分の限界に挑戦したい気持ちはわからないではないが、自分の実力を客観的に把握すべきである。より少ないコストで、もっと生きのいい若い選手を使った方が、チームには貢献する。

人間と同じで、国や社会も、若年期、壮年期、熟年期がある。そして、それぞれの時期にフィットした役割や立ち位置がある。世界の歴史を紐解けば、そのくらいのことはすぐわかるだろう。しかし、90年代以降の日本がやっていることは、まさに自分のポジショニングをわきまえず、過去の役割や立ち位置に執着していることである。醜悪なだけでなく、自ら新しいチャンスを潰している。

高度成長期の日本は、エマージングカントリーだったからこそ、いいものを安くの技術立国が可能だった。そのバックグラウンドを無視して、成功体験だけを後生大事に有り難がっても、全く意味がない。もちろん、そういう選択肢もないワケではない。どうしてもやりたいのなら、そういう国の人達とコスト的に勝負になる賃金で働け。しかしそれは、生活水準も文化水準も、開発途上国に戻ることを意味する。それをマジで望むヒトは少ないだろう。

今の豊かな社会と、職人や技術者的な生き方の両立は無理なのだ。秀才、職人モデルで、こつこつ勉強や努力を積み重ね、先人達の知識や技を会得すればなんとかなる、というやり方は通用しない。そのポイントはいろいろあるが、生まれながらにしてスゴいヤツと、凡人とは明らかに社会的価値が違う。これからの時代、世界の中で日本が生き残り発展するためには、このスキームを受け入れることが何より重要になる。そのほうが、みんな楽で幸せになることに、はやく気付いたほうが勝ち組なのだ。


(14/10/24)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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