サヨクという宗教





何かというと、「お上」に責任を押し付けたがる人が、相変わらず日本には多い。それはまた、お上からのバラ撒きにありつきたがる人ともオーバーラップするのだが、こういう人達が多くいることが、官僚のバラ撒き利権を温存・拡大する温床となっているのはいうまでもない。しかし、基本的には情報さえ提供されていれば、自己責任でいい。いちいちお節介を焼く、大きい政府はいらない。

かつて、20世紀の半ばぐらいまでの社会においては、情報をフラット&オープンに提供する手段がなかった。このため、情報を集中的に収集し、人々の命と資産を守る役割が、国家に求められたことはは確かだ。しかし、1970年代以降は社会の情報化が進み、この構造が大きく変わった。情報の収集も、それに対する対応も、民間ベース、個ベースで充分できてしまう。いや、逆に大きな政府が関与することで、自由な情報の流通が阻害されてしまう。

最近、安全に対するお節介が過ぎるのが目立つ。街中にセンサーや安全装置、監視カメラが張り巡らされ、これでは死にたいヤツも、死に場所を選べない。実はこれ、お客様の安全を考えてというより、国や地方自治体、事業者の責任が問われないように、予防線を張っているだけ。官僚が自己保身のために、税金を無駄遣いする。まさに、大きな政府の役人根性の賜物である。

こんなもの、基本的に自己責任ということにすれば、それで済んでしまう。鉄道自殺して損害を蒙った鉄道事業者や乗客は、遺族に損害賠償を求めればいい。予防する必要などないのだ。そもそも3〜40年前の高度成長期。日本がまだ貧しい発展途上国だった頃は、財政的にとてもそんなお節介を焼く余裕はなかった。線路に柵はないし、踏み切りに警報器はない。交差点には、信号も標識もない。野蛮といえば野蛮だが、それでも人々は力強く生活していた。

そういう意味では、死後周りに迷惑をかけるのは考えものだが、死にたいヤツ、死んでもいいと思ってるヤツは、他人に迷惑をかけない限り、勝手に死ねばいいのだ。樹海にでも行って、人知れず死ねばいい。樹海に屍が溢れようと、それは本人の希望なので、供養したり、身元捜査したりする必要はない。それを、公費をかけてお節介をやくなんぞは、血税の無駄遣いの極み以外のなにものでもない。

しかし考えてみれば、現代人は命を大事にしすぎるのではないか。昭和30年代ぐらいまでは、人間はもっと簡単に死んでいた。それでも日本の人口は増えていたのだから、それで「神の見えざる手」のバランスは取れていたのだ。元来、自然界の掟は自然淘汰である。死ぬ個体は死ぬ運命にあり、それが神でも阿弥陀様でもいいが、この世の掟を定める存在が定めた業なのだ。

そう思って良く考えると、世界宗教も、現世を「苦しみ」、来世を「救い」と規定するものがほとんどである。そして、来世に救いを求めるのである。世界宗教は、中東やインド亜大陸など、厳しい生活環境の地域から生まれている。そのような生きてゆくことが大変な環境下では、生きていく上で精神的支柱が必要になる。それが普遍性を持つ宗教となった。そして、その基本は、現世はキツいが、それを乗り越えれば、来世で救われるというところにある。

死にたい奴は、現世を苦しみはかなんで死ぬのだろう。つまり来世に救いを求めているのである。それならば、そんな奴の命を救うことまで、国家が尻拭いする必要はない。それを求めているとするならば、それは「お上」たる国家に甘えているだけである。大体、そういう甘え体質の人は、マトモに税金を払っていない場合が多い。自分が税金を払わない人に、特別な恩義を与える必要はない。

もちろん最低限のセーフネットは必要だが、それがセーフネットという名のバラ撒きになってしまっては、元も子もない。天に召したい人は、自由に召せばいい。それをお節介にも救おうというのは、もはや行政ではなく、宗教の領域だ。生きるか死ぬかというセーフネットは、宗教に任せるべき。自由主義、民主主義先進国の基本である。政教分離が近代国家の前提というのなら、お節介焼きの大きな政府は、とても近代国家とは呼べない、政教一致の宗教国家だ。確かに、大きい政府を求める勢力は、妙に宗教っぽいところがあるが、これは偶然の一致ではないのである。


(14/11/07)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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