政治や時事も、単なるネタになった





国全体が、金もモノも貧しい頃。そんな時代に「いい思い」をしようと思えば、お上の顔色を窺って、おこぼれにあずかるのが一番手っ取り早かった。高度成長期の日本がそうだし、今でもBRICSなどの新興工業国でも良く見られる現象である。おいおい民間も、お上の動向が気になるし、その動きを常にウォッチしながら、うまく立ち回ろうと対応することになる。

しばしばこういう国では、官僚や軍部などが、限られた金や利権を独占している。かつては日本でも、ロッキード事件などがあった。そのような先進国の援助や利権と結び付いた、汚職や買収は日常茶飯事である。今でもアジアやアフリカの諸国では、ODAなどに絡んだ黒い利権が渦巻いており、日本の商社や建設会社がお縄になったというニュースを、年に一度や二度は耳にする。

そういう国や時代なら、お上の動きをキャッチするために、政治や時事系のニュース記事が、特別な情報として意味を持ったのも当然であろう。国中が、お上の動きに一喜一憂している。それが日常である。そういう風土がベースにあると、本来関心がない、関心を持たなくていい人も、背伸びして政治や時事問題に関心を持っているふりをするようになる。その方が見栄も張れるからだ。昔の日本で、そういう情報が価値を持った理由はそこにある。

しかし、豊かになった今では、そんなのは関心の対象ではない。いまでもお上のバラ撒きを期待している人はいないわけではないが、それはどちらかというと貧しいヒトたちである。今の日本では、超低金利ゆえ、マネーそのものがだぶついている。民間なら、どこでも容易に資金を調達できる。基本的に、先進国というのはそういう金融市場ができており、それが自由主義的な経済構造を担保している。

そういう社会では、自国の政治や時事系の情報はあまり価値を持たない。海外主要マーケットの為替相場や株式相場のほうが、よほど重要である。そういう成熟した社会では、政治や時事の話題を真面目に論じるのはアホでありヤボである。人々は、自信を持ってそう言い切れる。こうなると、格好を付けるために政治や時事を論じたり知ったかぶりしたりする人もいなくなる。

どこかの国が戦争をはじめても、政権交代があってもどうでもいい。まあ、戦争が始まれば、レアメタルなど関連する相場が上るので、ここぞとばかりに張り切る人もいるだろうが、それはその道のプロにしか関係ない話。一般の大衆にとっては、そんなことは意識の外側である。いい悪いとか、倫理的にどうだとか、そういう問題ではなく、「そんなの関係ない」というのが本音である。

基本的に、人々は豊かになれば、自分の周りのこと、自分に直接の利害関係のあることしか関心がなくなる。世の中のディジタル化・インタラクティブ化が始まった頃、リアルかバーチャルかという区分けが良く話題となった。しかし本当にクリティカルなのは、実際に直接自分の身に関わる問題かどうか、すなわちタンジブルかどうかだけである。自分が直接コミットできないものは、基本的に自分と関係ないのだ。

地球の裏側の戦争は、映画の中やゲームの中の戦争と同じである。実際に死人が出ようが街が破壊されようが、自分にとってはどうでもいい。それはどこかの現実かもしれないが、自分の生活においては虚構と変わらない。こういうことを持ち出すを、いいとか悪いとかいう倫理観上の問題を問いたがる人がいる。しかしこれはそういう問題ではない。一般の人々にとっては、本当に必要がない情報なのだ。

しかし、これは今に始まったことではない。ずっと庶民はそう思っていたのだ。上昇志向が強く、見栄を張りたいからこそ、タテマエで気になるふりをしていただけのことである。しかし、社会が豊かになり生活が安定すると、そういう「フリ」をする必要がなくなり、胸を張ってホンネを語れるようになったのだ。

考えてみれば、人類の歴史においてはそのほとんどの時代、人は自分の身の丈の範囲のことさえわかっていれば生きてゆけた。国家だ、グローバルだというのが、庶民レベルまで意識されるようになったのは、近代社会になったたかだかこの2〜300年のこと。それも多くの人にとっては、本当は関心がないのに、格好つけて関心があるふりをしていただけである。そういう「社会性」を気にする時代の方が、人類史では特異点なのだ。

人々は、自分が生きていくのに直接的に関わることさえわかっていれば、あとはどうでもいい。基本的にタンジブルな範囲しかわからないし、知らなくていい。台風だって、どこか日本の離れたところで大きな被害があっても、自分の生活圏が無事なら、それでいいのだ。実際、昭和30年代のNHKテレビの天気予報では、天気予報がエリアごとのローカル番組だったこともあり、関東地区では「台風は東北地方に去りました」と、平然と解説していた。

そういう意味では、人々が政治や時事情報への関心を失い、単なるギャグのネタとして使われる範囲でしか興味を持たなくなったというのは、本来の姿を取り戻しただけなのである。無理に背伸びをしていた方が、異常だったのだ。そういう近代主義的な時代に育ち、無理に上昇思考をもって格好をつける方が当たり前と思っている人はまだまだ多い。しかし、それは的外れであり、時代遅れなのだ。時代が変わったことを、知らなくてはならないのだ。


(14/11/14)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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