自己責任をとりたくない人





昭和の高校生にとっては、学校の制服とは支配と抑圧の象徴であった。校内暴力や学級崩壊で生活指導が厳しくなった時期においては、校則を守らせることが学校側の管理の基本となり、制服のチェックはその際たるものであった、生徒の側はそういう管理をうっとうしく思い、校則を破ることで自らのアイデンティティーと尊厳を守ろうとした。当然、校則に決められた形で制服を着用などしない。

これは、秀才・優等生のような偽善的に「良い子」でいたい連中以外では、立場を超えて共有されていた価値観である。軟派系は当然私服である。制服そのものを着用しないことで、自己主張をした。また、私服ならば夜盛り場でたむろしていても補導されないという実利もあった。硬派は学ランに改造する。学生服を基本にしているものの、丈や襟の高さなどを規定されたものから大きく逸脱することで、強い自己主張を発揮する。

個々のトレンドは時代毎にいろいろ波があったものの、「不良魂」みたいなものは、脈々と受け継がれていた。制服に象徴される校則に従わないことが、アウトサイダーとしての不良のアイデンティティーでもあった。バブル期ぐらいまでは、間違いなくこの流れは受け継がれていた。ロック魂ではないが、音楽が不良のものだったのも、時代的にはシンクロしている。校舎の窓ガラスを割りまくる尾崎豊あたりが、その最後だろうか。

さて、そんな時代も今は昔。現代の高校生は、制服大好き、ルール大好きなのである。女子高生などは、偏差値が同じなら、制服のかわいい学校のほうを選ぶという。90年代を以て「失われた10年」という呼び方が流行ったが、まさにこの問題でも90年代を画期として、80年代までと00年代以降は隔世の感がある。それはルールを守っている限り、責任をとらななくていいからだ。だから今の若者は、制服やルールが好きなのだ。責任を取るのがいやなのである。

そういえば、この10年ぐらいは、企業の中で「責任への耐性が弱い若者」という問題が指摘されてることが多い。生まれてこの方責任を負ったことがないので、責任ある仕事を任せると「新型うつ」や「メンタルヘルス」になって会社にこなくなる。果ては、ブラック企業だとSNSなどでののしるようになる。こういう連中は、「発病」すると仕事は手に付かないが、沖縄やタイに行って遊んでいると元気になる。要は、責任の重みに耐えられないのだ。

責任を背負ってしまうと病気になってしまうが、それを回避するにはどうしたらいいか。それには、誰かに責任を押し付けてしまえばいい。ルールを守ることは、実は実態のない、ルールを決めた人々に責任を押し付け、自分は気楽・気ままに過ごすことに繋がる。だから、今の若者はルールを守りたがるのだ。ルールさえ守っていれば、責任を問われることはない。ルールを守ることが、「無責任のライセンス」になっているのだ。

しかし、実はこれは若者だけの問題ではない。「無責任のライセンス」は、日本のお家芸でもある。高度成長期のように貧しく上昇志向が強い間は、イワシの大群よろしく皆が固まって同じ方向に突っ走っていたので、個人の責任を問われることがあまりなかったというだけで、実は日本人の多くは、きちんと一人一人の責任を問うと、たちどころにメンヘルになってしまうのではないだろうか。まさに「一億総メンヘラー」である。

昭和初期には、明治憲法の規定上責任主体たり得ない(神聖にして侵すべからずの真の意味)天皇陛下に責任をおっつけることで、無責任に勝手気ままに振る舞った、戦時中の軍人や革新官僚がいた。高度成長期には、カリスマオーナーの威光を借りることで、傍若無人に振る舞い、会社を喰いモノにした社員がいた。この伝統は、数々の名門企業の経営を傾かせたバブル期の背任社員にまで連なる。

いずれも「トップの紋所」をみせるだけで、たちどころに自らの責任は問われなくなるという、「無責任のライセンス」を振りかざした所作である。そもそも、日本人が紋所を好きな理由がここにある。「葵の印籠」さえあれば、全責任を紋所に押し付けて、自分は無責任でいられる。これぞ究極の「無責任のライセンス」である。そしてこれこそ、日本の庶民が一番欲しがっているものである。

ある意味、お上の決めたルールを順守するということは、この印籠のミニ版を手に入れることと同じである。ルールに従ってるんだぞという主張は、「この紋所が目に入らぬか」というのと同値である。問題があるなら、それはルールを決めたお上の方であり、自分ではない。それは、葵の御紋をかざすと、その瞬間から問題がその個人でもなく「徳川家の責任」に転嫁されてしまうメカニズムと相似形である。

そもそも「40年体制」下においては、そのお上自体が無責任の権化たる高級官僚の集団である。「お上の決めたルール」自身が、責任をたらいまわしにしている間に、責任のありかを不明確にし、誰も責任を取らなくていいように作られている。つまりその「ルールの体系」自体が偉大なる虚構なのだ。虚構であっても、ハダカの王様よろしく、その社会のメンバーが認めていれば機能する。

すなわち「紋所」のパワーは、相手がその権威を受け入れているからこそ成り立つ。ときどきそういう展開になる回があったが、悪代官が「よもやこれまで」と開き直り、紋所の威光を無視して切りかかれば、助さん格さんは、ちゃんばらをやらなくてはならない。もちろん、助さん格さんは、武芸の達人でもあるという設定になっているんで、ちゃんばらでも、ちゃんと実力で悪を成敗できる。

元々の映画では、印籠などという小道具はなく、紋所のご威光も出てこない。助さん格さんがちゃんばらで解決するこっちのパターンが多かった。時代劇としては、この展開の方が正当ということができる。しかし、ナショナル劇場の水戸黄門はテレビドラマである。一桁多い大衆にアピールしなくてはならない。そこで、時代劇としての痛快さとは別に、庶民が欲してやまない「無責任のライセンス」をクライマックスシーンに登場させたワケである。

これはもう、日本人の宿命とでもいうべきものである。この先、日本の大衆が自己責任で行動できるようになる日は、永遠にこないであろう。そんな中でも、世界の中では責任を果たさなくてはいけない。そのためにはどうするか。これはもう、有責任階級と無責任階級を分けた階級社会を再生するしかない。責任を取りたくないヒトに、無理に責任を取らせるのはかわいそうだ。やはり日本人にはこっちが向いている。江戸ブームというが、江戸社会のこういう面にも関心を持ってほしいものだ。


(14/12/05)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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