倫理という隠れ蓑





何かあると、すぐに倫理性や道徳性を持ち出してくる人達がいる。家族や家庭の問題しかり。仕事や社会性の問題しかり。しかしそういう皆さん自身は、どうみても品行方正には見えないことが多い。それもそのはず。そういう政治家とかが「倫理」をかざすのは、本当は道徳性を主張ではなく既得権の擁護に主眼があり、倫理を隠れ蓑に使っているだけだからだ。

すぐに伝統回帰を持ち出す人々も、構造は同じである。大体そういう皆さんは、きちんとした倫理や伝統を知っているわけではない。その権威を借りているだけである。なんとかいって、日本人は自己主張が苦手である。正面切ってヨコせ、バラ撒けと主張するのは、やはりばかられる。それだけでなく、欲しい欲しいが前面に出ると、強欲すぎて「その主張は過剰な要求だ」と否定されやすくなる。

こういうので化けの皮が剥がれてしまったのは、「弱者救済」であろう。高度成長期以来、長年のバラ撒き福祉政策で、弱者であることが既得権化してしまっている。弱者でなくなると、既得権を失ってしまう。それは、福祉の美名の下にバラ撒きを正当化し、その中に天下り利権をまぶしたい官僚の利害とも一致し、どんどん肥大化していった。バラ撒く方からしても、「弱者」がいなくなっては困るのである。どちらも欲しいのは、世を忍ぶ大義名分である。

本当に倫理観の高い人は、安易に倫理倫理と叫んだりしない。本当に伝統を重視する人は、安易にこれが伝統だとは言わない。そんな簡単で教条的なことではないのを、充分承知しているからだ。既得権擁護のために持ち出される倫理観や伝統は、きちんとした日本の歴史の理解に裏打ちされるものではない。それらは大体、明治以降に学校教育の場で展開されていた、どちらかというと西欧からの借り物の規範である。

たとえば、一夫一婦制は日本の伝統的家族制度ではない。一夫一婦制は、明治時代に、条約改正などで西欧化が求められた中で移入された、西欧的・キリスト教的ま家族制度・倫理観である。それが、江戸時代の武家の父系的な家族観と比較的親和性が高かったため、それなりに定着したものである。明治民法が成立してからなので、たかだか100年ちょっとの歴史しかない。万世一系の天皇家の歴史から比べれば、ゴミのようなものである。

日本の伝統的な家族制度は、母系の大家族である。江戸時代の人口のほとんどは農民を中心とする平民だったが、その家族制度は、母系大家族であった。母はわかるが、父はわからない。その子供をみんなで育てる。これは、現代的な父系の核家族とは全く異なる家族形態である。農村では、20世紀後半まで夜這いなどの風習が残っていたが、これこそ日本の農村の家族スタイルの基本なのだ。

伝統的な家族形態、伝統的な価値観という意味では、母系大家族こそ、有史以前から日本の歴史を貫く伝統である。それは、農民層だけのものではない。源氏物語を読んだことがある人なら、平安時代の貴族社会も、基本は母系制にあったことがすぐにわかるだろう。平安時代の藤原氏のように、「外戚」があれほど権勢を誇ったのも、天皇の皇子であっても、成人するまでは母方の家で育てられていたからだ。また、全国各地の伝承に貴種譚が多いのも、母系制だった伝統のあとを示している。

本当に日本の美しい家族制度の伝統を尊重し、その伝統に回帰することを望むなら、母系制大家族の「通い婚」にすべきである。確かにそうすれば、適齢期の女性は間違いなく子供を持つことができる。また間違いなく、子供は複数持つことになる。そしてその子供たちは、一族の者と、関係ある男たちが協力して育てることになる。母系制大家族は、実は母親の育児負担も大幅に減少させる。

これならば、出生率も大幅改善間違いなし。オマケに育児や家事に拘束されない分、女性の就業チャンスも拡大する。少子化にストップをかけ、女性のリソースを活用して経済成長を実現するためには、母系制大家族にするという、家族制度における「真の伝統回帰」が一番いいのである。「脱亜入欧」で中途半端に欧米キリスト教圏のような家族制度を取り入れたツケが、百年たって効いてきたのだ。やはり、日本には日本の伝統が向いているのである。


(14/12/12)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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