ブレない自分





現代のグローバルスタンダードの基準になっている西欧近代社会は、自立した個人により構成されていることがそのベースになっている。そして、何が起こってもぶれることがない自分を、しっかりと持っていることが、個の自立のためにはもっとも基本的かつ重要なポイントである。別に西欧近代社会が正しいとは思わないが、少なくとも自立した個人でなくては、そういう連中と付き合うのは無理だということは心しておくべきだ。

ぶれないためには、相手の顔を必要以上に伺わないことが前提となる。毅然として自分の立ち位置を説明できなくては、相手から対等な交渉相手とは認められないのだ。どんな相手に対しても、すぐへりくだるからいけない。これは、日本人の悪いところである。相手に迎合するのが、相手をたてることと勘違いしている。しかしそれが通じるのは、日本の国内だけである。そんな態度は、アジアでだって通用しない。

こういう傾向が顕著になったのは、80年代以降である。それまでは、それなりに毅然とした態度が取れる人がいた。明治時代の条約改正交渉など、そういう人達がいたから成し遂げることができたのだ。だが高度成長期以降、敬語がおかしくなったのと軌を一にして、こういう人付きあいの基本マナーが失われてしまった。人間関係のマニュアル化が進み、どんな相手にも同じようにへりくだった態度を取ればいいと考えるようになった。

何でもかんでも、腰が低けりゃいいってもんじゃない。心が入っていない形式だけの対応は、「おもてなし」ではない。確かにこういう「低姿勢のマニュアル化」は、顧客サービスという意味ではプラスの面もあっただろう。しかし、全てにおいてお客様は神様というのはありえない。それでは誉め殺しである。マトモな人なら、そんな対応をされたらこそばゆいに決まっている。

真っ当な感性がある人なら、余りに慇懃な対応をされると、バカにされているような気分になるはずだ。そんな対応をされて、うつつをぬかしているようでは、お客の方の品性が疑われる。高度成長期の経済成長で、国民の所得格差は縮小し、一億総中流と呼ばれた。しかしそれは所得面だけで、人間性の成長を伴っていなかった。こういうへりくだり文化が広まったということは、それは「一億総プチ成金」に過ぎなかったということだ。

バブル期以降、日本は急速に国際化したような気分でいる。しかし世界では自分をきちんと確立していない人間は、一人前とはみなされない。自分の考え、自分の価値観を持っていて、はじめて相手にされる。他人の受け売り、他人の模倣をしている間は、相手にすらされない。知識がいくらあっても、勉強がいくらできても、全く評価されない。秀才エリートが跋扈する日本の「国際派」では、全く歯が立たない理由がここにある。

キチンとした自分を持ち、それがぶれないからこそ、相手と交渉できるし、相手とディールできる。日本人が世界の場で交渉が下手なのは、語学力の問題でも交渉術の問題でもない。しっかりとした自分を持っていないからだ。肩書をいくら持っていても、自分を持っていない人間では、相手にされない。そういうものでいくらでもゴマかされてしまう日本社会の方が、オママゴトみたいなものなのだ。

よく、日本人は、海外のパーティーなどで、文化や歴史の話題になるとついてゆけず、口ごもってしまうといわれる。これがまさに、知識だけで自分の意見を持っていない悲劇である。日本文化の知識や日本の歴史をどれだけ勉強したのかを聞きたいのではない。別に試験をしようとしているのではないからだ。彼らは、あなたの意見 を聞きたがっているのだ。そのワリに、そもそも意見を持っていないのだから、話にならない。

ベンチマークする相手がいて、それを意識し真似ることでやってきた弊害は他にもある。過剰に相手を意識すると、相手のリアクションに一喜一憂し過ぎるようになる。欧米諸国の事例を基準にし過ぎるし、欧米諸国の反応を気にし過ぎる。これでは、足元を見られてしまうだけだ。だから彼らは、ルールそのものを変更してくる。レギュレーションを変えられると、あわてふためくだけで、ロビイング等を政治的にウマく使う発想にならない。

19世紀末から20世紀はじめの頃の方が、こと、へりくだらないという点においては、日本の外交はよほどしっかりしていた。それは、江戸時代に育ち、武家のマナー(階級社会の有責任階級の生き方)を身に付けていた人が、政治も経済も軍隊もリーダーシップを取っていたからである。その毅然とした態度があったからこそ、帝国主義の餌食となって植民地化されることがなかったばかりでなく、最終的には列強の末席に置いてもらえたのだ。

世界の中で存在感を持つには、相手の顔色を伺いながらコロコロ態度を変えるようではダメだ。相手から違いを認めてもらえるぐらいの、しっかりした自分を確立していることが必須である。そもそも自分をもっていなくては、自分を主張できない。それは、国でも個人でも同じである。ヨイショされると素直に喜んでしまうような、「庶民感覚」では通用しないのだ。ここでもまた、単に偏差値が高い秀才というのではなく、生まれも育ちも違う本当のエリートが必要とされているのだ。


(14/12/19)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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