文化の押し付け、価値観の押し付け




戦争をはじめとする世の中の揉め事は、一体何から起きるのであろうか。その原因はほとんどの場合、文化の押し付け、価値観の押し付けに求めることができる。個人間のゴタゴタも、自分の価値観を一方的に相手に押し付けることから始まることが多いが、この原理は国家間でも変わらない。人間はともすると、多様性を否定しようとする。はっきり言って、異種の相手に対する寛容さが欠如している人の方が多いからだ。

それは自分だけが正しくあるために、異なる存在を否定しようとすることに起因する。こういう行動を取る裏には、自分達の優位性が容易に失われてしまうことに対する恐怖がある。自分に自信がないから、常に相手に打ち負かされてしまうのではないかというコンプレックスを感じている。これをクリアするには、相手を先にぶっ潰してしまうのが一番。だからこそ、自分と違う存在が許せなくなる。

これはある意味、一神教の悪弊である。一神教においては、神は唯一絶対である。自分が信じている神以外の神など、存在してはならない。しかし、異教徒も一神教だったりするとすこぶる手強い。だからこそ、異種の存在に対する戦いを、自分達の教義の中に入れてしまった。こうなると、異教徒に対する戦い自体が、教勢拡大の原動力にもなる。これを繰り返すことにより、どんどん「違う人」への許容範囲が狭くなってゆく。

これをやっている本人には、どんなに攻撃的になっても「信じるまま正しいことをしている」としか感じられないのが恐いところである。自分達だけが正しく、邪教徒は皆殺しにしていい。そのような教義を、一神教はビルトインしているのだ。しかし、歴史的に見れば、全ての一神教が排他的なドグマを持っていたわけではない。もともと一神教とは、「選ばれた人だけが救われる」という教義だったはずだ。

そもそもこのような排他性は、十字軍からはじまった。初期イスラムは、異教徒に寛容であった。それはイスラム教が、オアシス都市国家間を結ぶアラブ商人の間から広まった宗教だからだ。いろいろな国に住む、いろいろな人たちの間で交易するからこそ、商業は発展する、異教徒に寛容でないと、商売にならないのだ。このため、税金さえ払えば、異教徒も存在は認められた。救われないが、「いてもいい」存在である。

自分達と同じ神を信じる者は救われるが、異教徒は救われない。それは死後の世界の違いであって、現世における違いではない。ただイスラムも、自分達の存在を否定する相手に対しては、徹底的に聖戦を挑み抗戦する。その虎の尾を踏んだのが、十字軍である。排他的・攻撃的なのは、キリスト教の方であり、イスラム教ではない。ただ、近世以降においては、ヨーロッパキリスト教文化圏が世界の覇権を握ってしまったので、自分達の行動こそ正しいとはかりに正当化されただけである。

つきつめればこの問題は、「異文化とどう接するか」という点に帰することができる。異文化は理解できないのが当たり前である。理解できないのを前提に、どう共存するかを考える必要がある。共存するための努力をしなくては、共存できない。違いを認めることが、共存への努力の第一歩である。自分達の常識をベースに判断した瞬間、それは価値観の押し付けになる。

そう考えてゆけば、それぞれが自己責任で行動している分には、互いに干渉しないのが平和の第一歩であることに気付くであろう。相手の存在を認めない人間は、いかに相手が寛容でも、相手から認められるワケがない。そんな単純な相互関係もわからずして、世界平和を語るとは、笑止千万である。「イスラム国」に対する欧米各国の対応を見ていると、彼らに世界平和を語る権利があるとは思えない。

違う価値観を理解しようとせず、自分の価値観を押し付け、異なる価値観を持つものを排除しようという力の論理は、十字軍の頃と全く変わっていない。個人の趣味嗜好や幸せのカタチは多種多様である。それを他人に押し付けない限り、そこには誰かが異議をさし挟むことはできないし、ましてや国家や権力が介入すべきものでもない。そもそも、個人のレベルで他人を認める心の余裕がなくては、相手を尊重し合える社会は作れない。

個人レベルで相手を受け入れられる前提としては、しっかりと自分らしさを持ち、それに自覚的であることが必要となる。たが、これが難しい。近代日本社会においては、多くの人が、常にリファレンスを持ち、それをベンチマーキングし続けるような生き方がベストだと信じていた。と書くと格好いいが、要は、ものマネが肯定され、それが奨励されてきたのだ。上手にマネしていれば、それで豊かになり幸せになれると思い込んできた。だから、しっかりとした自分を持っている人は、ごく少数である。

実は自分と違う相手とは、あえて一緒に交わる必要はない。平和に共存したいのなら、棲み分ければいいのである。接触を最小限にして、互いの領分を尊重し犯さなければ、揉めるはずがない。相手の顔を見なければ、ケンカにもならない。悪い言い方になるが、互いに互いの世界の中に封じ込め合えば、争いが起こることはないのだ。それでも干渉するのは、明らかに積極的な侵略である。

侵略を是とする帝国主義的な価値観もないではない。それなら、それを声高に主張すべきである。そもそも、キリスト教自体が帝国主義なのだ。大航海時代、スペインやポルトガルの植民地侵略は、そもそもキリスト教の布教の名の下に、イエズス会などの宣教師が尖兵となって行われたことを忘れてはならない。八百万の神は平和を好む。金持ち喧嘩せずではないが、神様同士は本来喧嘩しないのだよ。


(15/01/09)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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