ローカルスターの時代




蜂や蟻といった昆虫は。一匹一匹が個体というより、一つの巣全体が一個体と考えた方がいい。高等生物では、一つの受精卵の細胞から、いろいろな臓器が生まれ、役割分担をして、個体の生命維持を図っている。その細胞は、全て同じDNAを持っている。しかし、臓器ごとに違った機能を果たすように特化している。一つ一つの細胞から見れば、一個体が一つの複雑な系となっている。

これと同じように、一匹一匹別の個体に見えるが、一つの巣にいる蟻や蜂は、全てDNAが共通である。役割分化しているので、巣単位ではじめて生命維持ができる。こう考えれば、蟻や蜂の個体は、それぞれの臓器が独立して行動できる個体のようになっているだけということがわかる。一匹だけでは生きて行けない。巣単位で初めて生きてゆける。それは脳だけ、心臓だけでは生きて行けないのと同じだ。

アメリカに代表されるような大陸大国においては、声高に地方分権を叫ぶ以前に、中央集権が成り立たない。大陸国家における自治とはそういうものである。国としてのまとまりはあるものの、中央集権国家のように、国全体が一個体で、地域が臓器というものではない。蟻や蜂の巣のように、それぞれのエリアが、別の個体のように独立しているが、全体として一つの系を成しているのである。

中国の歴史を深く読むと、このメカニズムがよくわかる。皇帝は君臨しているが、地域を完全に支配しているわけではない。地に足がついているのではなく、それぞれの地域権力の上に乗っかっているだけである。その王朝の支配が正当性を持つかどうかは、独立性の高い地域が、その王朝を担ぐかどうかにかかっている。だから近代になるまで、中国においては国境という概念はなかった。担がれるかどうか。まさにこれが「天命」である。

さて、地域の独立性が高くなると、そこにいる人々の能力を最大限につかうことが必要になる。誰かがやってくれるということはない。ましてやお上頼りなどあり得ない。そこにあるリソースは限られているし、誰の目にも見えている。その資金や資源、人材をフルに活かさないと、生きてゆくことができない。このような環境下では、人々の才能が充分に発揮させることになり、「ローカルスター」が生まれてくる。

コミュニティーごとの自治というと、政治・行政面がまず想起される。確かに開拓時代の米国では、「保安官」制度として警察まで民営化されていた。しかし、自治はそれだけではない。経済的な面でも、地域ごとの独立性が強かった。いわば産業連関表のかなりの部分が、そのエリア、そのコミュニティーの中で閉じている。実は、大陸国家の特徴は、この経済的な分権性の強さにある。

明治以降の近代日本においては、その反対に、中央集権・一極集中が基本になっていた。日本は、コンパクトな国土に人口が集中しているため、中央集権が経済や社会の発展のために効果的だったのは間違いない。それなりに合理的な選択ではあったと思うし、アジアの米作地域のように、同様の特性を持つ国においては、経済発展のために中央集中が効果的であった例はいくつも見出すことができる。

しかし日本といえども、もともとは違うのだ。それは、時計の針を江戸時代まで戻せば見えてくる。江戸時代においては、幕府は全国を直接支配したわけではない。政治・経済的には藩毎の自治が基本であった。幕府は藩を支配するものの、全国津々浦々の民衆そのものを支配したわkではない。さらにその藩も、同様の入れ子構造を持っており、村々を直接官僚システムで支配したわけではない。官僚たる武士の数は極めて少なく、これでは直接管理はできない。

そのような理由から、民衆レベルでは集落ごとの自治が基本であった。当然人々は、集落ごとに協力し合うことで生活を成り立たせた。そういう中では、特別な能力に長けている人は地元のヒーローとしてもてはやされた。各集落ごとに、地元の祭りの踊りやお囃子、能の奉納など、独自の芸能が伝えられていたが、当然「祭のヒーロー」的な存在はおり、人気を集めていたことは間違いない。これは農村だけではなく、江戸のような大都市でも、町火消しが代表的だが、町人は自治が基本だった。

バランスのとれたコミュニティーなら、人それぞれ特技の応じた役割を果たし、バランスよく能力が発揮できる。その中から、コミュニティーのスターたる「ローカルスター」が生まれる。今でも学校などでは「クラスの人気者」「学年の人気者」がいるが、それがコミュニティー単位で生まれるようなものである。アメリカなどでは、音楽にしても、芝居にしても、スポーツにしても、けっこうこういうローカルスターがおり、その層が厚いのだ。

そのようなローカルスターの中から、全国区に通用する才能が生まれ、ビッグなスターになる。こういう分厚いヒエラルヒーがあるというのは、才能の育成システムとしては極めて健全である。しかし今の日本のように、最初から全国区一本しかないいうのはやはり歪んでいるといわざるを得ない。その分、タレントにしろスポーツ選手にしろ、青田刈りと使い捨てが横行することになる。

21世紀に入ってから、若者の中央志向がなくなった。首都圏に出てくる若者はまだまだいるが、それは地元に職がなく、やむなく出てきているのであり、東京にあこがれて出てきているのではない。才能を育むという意味では、これはいい傾向である。中央を目指すのではなく、みんながみんな地元でつつましく暮らすことを目指すようになれば、それなりに地域経済は回り出す。メジャーになるより、まずローカルスターになる。これが健全なのだ。

では、社会全体としてそれを阻害しているものはなにだろうか。それは中央官庁を中心とする利権構造と、その既得権益に巣食う守旧派勢力である。バラ撒き利権を確保し、その受け皿の公益法人を作って天下りの椅子を確保するシステムが機能するためには、中央集権で税金が一旦中央官庁に集中しなくてはならない。今の日本で中央集権を求めているのは、この連中だけである。やはり、官僚がガンなのだ。今後日本が健全に発展するためにまずやるべきこと、それはやはり官僚制を解体し「小さな政府」を実現することなのだ。


(15/01/16)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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