生真面目な人々




真面目にしか自分のアイデンティティーがない人間は、今や生きてる意味がない時代になった。昨今、うつ病などメンタルヘルスの問題が大きくなっているが、その理由の一つとして、この時代的変化を上げることができる。生真面目な人間ほどメンヘルになりやすいという事実も、この相関の高さを示している。これはある意味、20世紀後半の日本は、生真面目な人間に優しすぎたことの反動である。

高度成長期においては、こつこつと真面目に生きている人間にも、それなりに希望と可能性があった。だがそれは、高度成長期の特殊要因に基づいていた。一つには高度成長はで経済が右肩上がりで、コストや費用対効果を考えるより、先手をとってシェア確保することが重要であり、そのためには質より量で手数が必要だったことである。こういう状況では、言われた通りに動くロボットのようなイエスマンは、極めて役に立った。

もう一つは、まだコンピュータやネットワークが未成熟だったことである。この段階では、定型的な情報処理も人海戦術で労働集約的に処理しなくてはならなかった。総務や経理など、本社の事務部門の作業の多くの部分が、伝票の整理と集計に類する定型作業であった。これをこなすには、大量のホワイトカラーが必要であった。このような作業には、コンピュータのように決められた作業をこなす人間が向いている。ここでも生真面目な人間が求められた。

しかし、バブル崩壊以降、日本社会もその経済状況も大きく変化した。シェアより利益が重視されるようになった。こうなると、頭数だけ揃えても戦力にはならず、一人一人が考えてマネジメント力を発揮することで利益を作りこまなくてはビジネスにならない。また、情報処理技術の進歩は、人間が労働集約的に処理する数百倍、数千倍の速さで、データや情報を扱う大量の定型作業を処理できるようになった。

かつての時代においては、定型処理をこなすのが得意な生真面目な人材が必要だったことは間違いない。しかし時代のニーズが変わってしまった以上、彼らはたちまち不良在庫になる。まるで市場のニーズを読めず、プロダクトアウトで時流に合わない商品を大量に生産してしまうようなものだ。1990年代以降の教育制度は、完全に没落する日本メーカーの蹉跌と軌を一にしているといえる。

歴史を振り返ってみれば、生真面目な人達の使い道は明確である。はっきり言ってしまえば、そういう人達は、お国のために死ぬしか存在感はない。情報処理技術が発達していない時期のテイク・オフ諸国においては、たまたま定型作業を労働集約的にこなす業務が大量に発生したため、そういうパーソナリティーの人達にも光が当っただけなのだ。人類史的には、そちらのほうが特異な時代である。

聖戦のために殉教できるような宗教がある国なら、生真面目な人は自爆テロで死ぬがよい。神が祝福して天に召してくれるであろう。そうでなければ、お国のために死ぬがよい。そう、日本にはすばらしい制度がある。そのためにこそ、神聖な靖国神社はあるのだ。靖国神社自体は、実際に参拝したことのある人ならすぐわかると思うが、素晴らしく聖的で清いものである。

確かに、それを政治的意図に使おうという人々もいるが、それはそっちがヨコシマなだけで、祭られている英霊に罪はない。いや、神聖な宗教的世界に、そういう政治性を持ち込むことが、英霊に対する冒涜である。真面目に生きるしか能がない人も、お国のために 死ねば、英霊となり永遠に祭られる。生真面目な人間を救うためには、これ以上のものはないすばらしい制度である。

真面目に生きるしか能のない人でも、来世では神となって救われる。そもそも宗教の目的は、来世に希望を持つことで、苦しい現世を堪え忍ぶ心の支えとなることにある。そういうことでは、お国のために死ねば、メンヘルになることもない。それどころか、英雄としてたたえられる。これこそ、宗教の本懐である。その意味では、金儲けとか、試験合格とか、神仏にお願いする方が生臭すぎるのだ。

最後に救われるという意味では、人間は平等である。これが天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずのキリスト教的な本来の意味である。しかし、現世においては、負っている業の深さの違いがある。業の違いにより、現世における人間の格は、決して平等・対等ではなく、明らかに差がある。しかし、どんな試練を負わされたとしても、自分の業の深さを受け入れ、それにあがなうことなく生きてゆけば、最後には救われる。

これが、いわんや悪人をや、のもともとの教えである。悪人を現代語的にとらえて、犯罪者・アウトローと解釈する人が多いが、それは違う。深い業を負わされた人、しいていうなら、運の悪い人という意味である。そういう意味では、生真面目な性格も「業」である。そうである以上、それを救うものは宗教しかない。生真面目な人を救うには、靖国神社を政治の手から取り戻して宗教性を復活しつつ、お国のために堂々と死ねる場を増やすことが一番である。


(15/01/23)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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