自分のペース




自分のペースで生きられない人間が、他人を救えるワケがない。それは、自分自身を救えない人間が、他人を救うことなどできないからである。他人が気になって仕方ない人間では、その気になる相手である他人に対し働きかけることができなからだ。そのワリに、そういう人ほど、他人の行動に対しておせっかいだったりする。出る杭を打ちまくるのも、こういう人達だ。

自分の世界を持っていて、他人と違うことができてはじめて、自分というアイデンティティーが確立する。「自分のペース」を掴むことができないのは、常に人と比較することでしか、自分というものを捉えられないからである。自分一人だけであっても、自分が何者で、何をしたいのかわかっていなくては、自分の足で歩くことはできない。人間は組織の一員である以前に、個人でなくてはおかしい。

人と比べてみて、相対的にどうこういったところで、ほとんど意味がない。それどころか他人と比べた瞬間に、その相手以上になる可能性を放棄してしまっている。今、ベンチマークしている相手よりスゴい相手は、世界にはいくらでもいる。確かにベンチマークする相手を次々と変えていけば、自分自身はそれなりにステップアップすることができるかもしれない。

だが、そのやり方をとる限り、絶対にナンバーワンにはなれないし、オリジナリティーも発揮できない。なれても、モノマネのナンバーツーである。ものマネのナンバーツーには、アイデンティティーはない。存在意義もない。しかし、当人は「追いついた」ことで、自分も一人前になったと勘違いしがちである。それは、自己満足以外のなにものでもない。まさに、20世紀の日本のやり方がそれだった。

われわれは、そういう模倣に慣らされ過ぎた。「追いつき追い越せ」でそのやり方しか知らない人が多い。だがそれでは「追いつく」ことはできても、「追い越す」ことはできない。ジェネリック医薬品ではないが、同じものを安く提供し、ナンバーワン・シェアを取ることは可能だろう。だが、それでは「追いこし」てはいない。どんなに甘く見ても、「横並び」でしかない。

何かデッドロックにぶち当たると、すぐ諸外国の事例を学ぼうとするのがそのいい例だ。あるいは問題が起きたとき、諸外国ではどのように反応しているかを過剰に気にする。ここで、本当に山を越えるには、誰かから学ぶのではなく、自分で考えなくてはダメなのだ。過去に学ぶコトがあるとすれば、それはマネるためではなく、マネにならないようにするためだ。

これはまた、戦略性ということにも繋がる。戦略性とは、突き詰めると大局観と全体最適である。自分が最終的にどこにいきたいのか、何をしたいのか。明確にわかっていないと、戦略的な視点は持てない。ものマネで行く限り、当面ベンチマークする相手さえマークしていれば、それで用が足りてしまう。その先のことなど考える必要がない。おいおい、戦略的視点が欠如し、短期的な戦術視点だけになる。

いつも例に出しているが、この弱さが如実に顔を出すのがスポーツだ。試合では、目先の相手に勝つことは必要だ。しかし、試合に勝つことは、たとえば優勝とか、何かを実現するための手段であって、それ自体が目的ではない。である以上、どんな手を使っても勝ちゃいいのだ。不戦勝でも一勝は一勝。優勝には確実に近づく。それを常に意識することが、戦略的視点なのだ。

大きな戦略的目標を持って、そこに向かって中長期的視点からオプティマイズする。勝つには、このビジョンが必要である。全試合全力のガチンコで行ったのでは、消耗するだけであり、イザという最終決戦のときに、必要なリソースが残っているかが危ぶまれる。戦略的課題を実現するには、目先の課題を、一つ一つクリアすのでは無理なのだ。自分の持っているリソースを、どう戦略的に配分すれば、最終目的=優勝が達成できるか。その視点がない。

自分のペースをキープできるということは、それだけ中長期的な目標を持ち、それを実現する道筋についても、明確にイメージを持っているということである。ぶれない、動じない、腹がすわる。今風の言い方をすれば、戦略的な全体最適を図ることができる、という意味だ。これからのグローバルな競争で生き残るには、これできることが前提となる。日本の官僚みたいな秀才に、果たしてこういう動きができるのか。良く考えていただきたい。


(15/01/30)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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