自己責任に否定的な人々




日本人が紛争地域で戦闘に巻き込まれたり、捕虜になってリすると、決まって話題になるのが「自己責任論」である。もちろん、当の本人は単身そういう地域に乗り込む以上、文字通り「決死の覚悟」で現地に向かっている。そういう意味では、当人は間違いなく自己責任で行動しているし、いざとなれば国家なり政府なりが助けてくれるだろうなどという甘い考えは持ってない。

それは肯定的な意味での「自己責任」だが、その一方で「勝手にスタンドプレーをして手間をかけやがって」というニュアンスで、否定的に「自己責任論」をかざす人達もいる。それは、大きな、おせっかいな政府が好きな人達、バラ撒きの既得権益にどっぷり浸かった人達、すなわち守旧派である。こういう人達は、一部の目立つ人達が「お上」から特別扱いされ、あたかも大事にされているように見えることが許せない。

そもそも真の意味で「自己責任」の行動をとる人々は、小さな政府を望んでいる。全部自分でできる人達である以上、お上に尻を拭いてもらいたいとは毛頭思わない。逆にいろいろな規制を廃して、全て当人の判断で行動するのが、自己責任の真髄である。だから当然バラ撒き利権の分け前に預かるよりは、一切の規制や指導から自由になり、自分のアイディアのまま、ビジネスチャンスを広げられることの方を望む。

そして日本においては、お上に期待する「大きな政府派」が多数で、自力で問題解決する「小さな政府派」は少数、というのがお決まりの構図である。これはたとえば、TPP問題でも全く同様に見られる。本当にやる気のある農業経営者は、TPP大賛成である。地の利を活かせば、アジアの富裕層に、自らが育てた高額・高付加価値な作物を売りまくれるチャンスがあることを知っているからだ。農業生産額では彼らは大きなシェアを占めているが、頭数では少数派である。

こういうやる気のある農業経営者は、バラ撒きの保護政策など求めはしない。まさに自分で事業のリスクを取り、自己責任経営をしている。では、バラ撒きを欲しがっているのは誰だろうか。それは、「農業をしているフリ」をすることにより、数々の補助金や利権だけ受け取ろうとしている「第二種兼業農家」の人達だ。農家であるという「形式」が利権になっている以上、こっちの方が圧倒的に多数派である。

そして、利権がほしくて農家を装っている以上、その利権が失われる可能性に対しては徹底的に反対する。しかし、さすがに「利権を守れ」「バラ撒きを守れ」とはいいにくいので、国内農業の保護とか自然環境の保全とか、とってつけたような屁理屈を並べている。しかし、彼らは実質的に、産業としての農業とは無縁の、自家用の作物しか作っていないような人達なのだ。多数派であるこういう人達が大きな政府を期待しているからこそ、日本ではバラ撒きがなくならない。

考えてみれば映画のマッドマックス的な世界ではないが、、究極の自立・自己責任とはアウトローだ。自分の身は、全て自分で守る。自分の権利は、全て自分で勝ち取る。周囲が全て敵でも、自分の居場所をきっちりと作り、キープできる連中だ。ヤクザもそうだ。山賊もそうだ。既存の秩序と対立している以上、誰も自分を守ってくれるワケがない。自分を守れるのは自分だけ。これぞ、究極の自己責任である。

そう考えると暴対法以降、既存の官僚組織の代表たる警察が、必死にヤクザをその存在から否定し潰そうとしている理由がよくわかる。だがグローバルスタンダードは、自己責任のヤクザの方なのだ。そんな秀才の甘えた法治主義では、21世紀の世界に通用しない。どんなに法律で縛ったところで、ヤツらはどんどん地下に潜ってその姿を隠すだけだ。秀才スタンダードは無力である。これから大事なのはヤクザスタンダードのほうなのだ。

たしかに、かつてのバブルの頃、日本企業はこぞって海外進出した。しかしその結果は死屍累々である。同時に、ヤクザも進出した。そして少なくとも「ジャパニーズマフィア」としては、それなりに橋頭保を作りプレゼンスを示した。この事実を見ても、秀才スタンダードは世界に通じず、まだヤクザスタンダードの方がグローバルに通用することがわかる。そもそも官僚・秀才は、甘え・無責任の権化である。自己責任から一番遠い連中だ。そのスキームにとらわれている限り、日本に未来はないことを深く念じるべきである。


(15/02/06)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる