高級食材





古今東西を問わず、高級な食材とされるものは色々ある。なかなか手に入れることができない「世界3大珍味」の類いだ。人間の食欲が尽きることがないからこそ、より手に入りにくい希少な食材を追い求めることになる。しかし、ここで間違ってはいけない。それらの食材は、珍なるからこそもてはやされるのであって、決して美味しいからではない。高価で珍奇な食材だから、美味しいということではないのだ。

その際たるものは、中華料理の高級食材であるフカヒレだろう。原材料であるフカヒレは、清朝の時代から中国大陸では日本からの輸入品でしか味わうことができなかった。しかしフカヒレ自体には、歯応えはあるが、味はない。その味のないフカヒレを料理に仕立て上げるのは、ひとえに料理人の力量である。 これが中華料理らしい贅沢さなのだが、その力量を味わうのが、この料理である。

味覚的には、主役はフカヒレではなく、それが漬かっている汁というか餡の方なのだ。味のないものを美味しく食べさせることができる料理人なら、その腕は超一流である。料理としては極めてシニカルな味わい方ではあるが、これが中国式の風流さなのである。珍奇性は理性で理解して楽しむものであり、けっして口福を味わうものではない。ここをはきちがえてしまうと、とんでもないことになる。

一般的な基準から言えば、高級品が必ずしも口当たりがよいわけではない。それどころか、普及品の方が美味しく感じるものも多い。国産の高級ワインは、かなり個性が強い。好き嫌いが分かれるところである。でも、高級品とはそれでいいのである。少数であっても、それを評価して高い金を出してくれれば、高級品マーケットは成り立つ。逆に普及品マーケットは数が勝負である。そういう意味では、米国産のテーブルワインの方が、余程万人好みの口当たりのよさがある。

国産の天然鰻も同様である。あまりアブラがのっておらず、パサパサしている上に、川魚特有のニオイも強い。うな重にしたときの味から言えば、中国産の丸々と太った養殖鰻のほうが、こってりとアブラものっており、口当たりも良く、はっきり言って美味しい。子供なら、絶対こっちに軍配を上げるはずだ。だが、天然モノは、そのアクの強さが風流なのである。その違いがわかる人は、単なる口当たりではなく、その風流さを味わうのだ。

松茸など、その存在自体がこういう珍奇な高級食材の典型例だろう。松茸は個性的な強い香りと、独特の歯ごたえがある。しかし、味があるワケではない。椎茸はダシがとれるが、松茸はいくら煮込んでも味が出てくるわけではない。味で評価されているわけではないのだ。だが、高級食材としてはダントツである。これも、季節感を演出する材料として特に国産モノは極めて希少なため、松茸が記号化しているからこそ成せるワザである。

いわゆる「初物」もそうである。初物が取れるのは、その食材が一番美味しくなる「旬」ではない。まだ、あまり出てこない珍しい時期だからこそ珍重され、ご祝儀相場がつく。ヌーボーワインもそうだが、あくまでも「お祭り」であって、美味しさを味わうモノではない。高級と言われるものが皆、万人にとって美味しいワケではない。もちろん、味の良さで高値取引される食材もある。しかし高級食材の多くは、万人ウケではなく、通ウケだからこそ高級とも言える。

ランキング番組では、ファミレスやファストフードのメニューで、実際の売り上げのランキングと、有名シェフや料理人がこれはイケると選んだランキングが大きく異なることはしばしばある。というより、それが普通である。ランキング上位とは、誰もが美味しく食べられるメニューということである。皆が美味しいと思って愛好するものと、プロがスゴい料理だと思うものとは、違って当然なのである。

高級とは、実利より風流さだ。美味いかどうかではない。ある意味、粋な見栄である。美味しくないものを、見立てでまなでる方が風流としてはレベルが高い。こういうのは、玄人衆が使う隠語や符丁と同じである。素人が、変に格好をつけてそのマネをしてもはじまらない。それで別に間違いでも、悪くもない。世の中の高級感とは関係なく、自分が気に入ったものを、素直に好きといえる感覚の方が余程大事である。

しかし、それはなかなか現代の日本人には難しい。一方で、ヨーロッパの人が強いところでもある。それは彼の地が長らく階級社会だからである。階級が違えば、マネをしても始まらないし、マネをする必要もない。貴族は風流を求めても、大衆は実利を求めるほうに熱中する。それが、自然に棲み分けられるのだ。だからこそ、世界に通じる高級品が生まれる。妙にフラットな大衆社会からは、本当の高級品は生まれ得ない。

江戸時代の日本文化は、ジャポニズムとして19世紀のヨーロッパで受容されただけでなく、20世紀の文化のひとつの源流ともなった。それは、風流がそこにあった証である。確かに江戸時代の社会は、階級社会と大衆社会とが、微妙に調和しハーモニーを発揮していた。別に背伸びをせず、格好をつけることもなく、自分が自然にいいと思えるものを選べる世界。好き嫌いに貴賤はない。このダイバーシティーが守られる社会からは、文化が生まれる。変な高級感に見栄を張らずにいられることが大切なのだ。


(15/02/20)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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