禁止したってはじまらない





ヨーロッパでの移民排斥運動が激化すると、決まって「差別禁止」という声が上る。これは学校でイジメが問題になると、すぐに「イジメ禁止」となってチェックが厳しくなるのと瓜二つである。しかし差別にしろイジメにしろ、それが人間の感情から生まれるものである以上、禁止したからといって構造そのものが変わるワケではない。差別を禁止したところで、差別が潜在化して地下に潜るだけである。差別する気持ちが消えるわけではない。

そうである以上、禁止することは表面的な対症療法にこそなれ、決して問題解決には繋がらない。差別そのもののあり方は、かえって陰湿で根深いモノになるのがオチである。まあ官僚達はどの国でも、抜本的に問題を解決するより、少なくとも自分の責任は回避できるという意味で、対症療法的な政策を取りがちである。表面的な謝罪、表面的な平等性が実現したとしても、差別感情が残っている限り、それは事ある毎に噴出するだろう。

本当に差別やイジメをなくしたいのなら、その構造に着目する必要がある。差別感情は、どこから生まれるのか。まずそれを突き止めなくてはならない。一対一のピンで行なわれる差別やイジメはさておき、集団的な差別やいじめは最下位争いから生まれる。同じように貧しいもの同士が、相手を蹴落として低めることで、自分のほうが優位だと安心する。だから、熾烈だし意地汚い。

ではなぜそういう状況下では、人は差別やイジメに走るのだろうか。それはそういう劣位にある人々の多くが、自分の置かれている境遇を受け入れないばかりか、その状況を社会や他人のせいにし、自助努力を行わず、まわりになんとかして欲しいと期待しているからだ。その一方でないものねだりばかりしている人は、差別やイジメにより自分以下の存在を作り出し、鬱憤を晴らすのだ。

自分を持っていないからこそ、他人との比較の中でしか自分をとらえられず、その中でも自分の方が優位に立ちたいと思うからこそ、相手を見下すのである。逆にいえば、自分の置かれている境遇を受け入れられる人は、それなりに努力して、それなりのポジションを獲得している。「金持ち喧嘩せず」ではないが、それなりに成功し余裕のある人は、決して他人を差別したりイジメたりしない。それどころかチャリティーでボランティア的に救いの手を差し伸べることも多い。

本当に差別やイジメをなくしたいのなら、ここにカギがある。差別がこういう低級な争いである以上、差別を禁止するのではなく、差別した人がまわりからバカにされる社会をつくるべきなのだ。第三者からみれば、差別する方もされる方も、どっちも最低レベルでのドングリの背比べ。目糞鼻糞の世界である。それなら、相手を貶めようとするヤツのほうがタチが悪い。よって最低なヤツは、差別するヤツ、いじめるヤツってことになる。

差別するネオナチは、質的に違法移民以下。マジョリティーが差別者をそのように見下してバカにするようになれば、差別は自動的になくなる。つまり、差別者こそが差別されるメタな構造をもった社会を実現すればいいのだ。真っ当な感受性を持った人間なら、恥ずかしくて差別やイジメなどできなくなるし、差別やイジメを目の当たりにすればバカバカしくてしょうがない気分になるだろう。まさに北風と太陽。禁止より嘲笑なのである。

この構造がわかると、差別やイジメの問題を根治するこをも可能であることがわかる。人々が自分を確立するか、自分の現状をあるがままに受け入れるような社会を実現すれば、これらの問題は解決することになる。前者は人間の器の問題なので、解決のしようがない。自分を確立できる人間は、あくまでも全体の中では少数派だからだ。しかし、後者はなんとかなる。まさに宗教の出番である。

宗教の基本、それは冠婚葬祭でも現世利益でもない。極楽浄土や天国に行くことで、死後救われるところにある。多くの世界宗教の教義では、「現世で背負わされた業を受け入れ、それに従うことが、来世で救われるカギになる」と説く。親鸞聖人の「いわんや悪人をや」である。業を受け入れるとは、今の自分を妬まず恨まず受け入れることを意味する。これができれば、差別もイジメもなくなるはずだ。今の日本の不幸は、宗教の欠如である。少なくとも日本においてはこれが最大の解決策となることは間違いない。


(15/02/27)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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