マイノリティーこそ起業を目指せ





市場原理というと、何か弱肉強食のようなイメージで捉える人が日本には多い。しかし、市場原理のベースにあるのは、実は「価値観の多様性」を守ることなのである。ユーザーニーズがある特定の商品やサービスに集中すれば、結果として集中・独占が起こることはある。しかしそれは市場原理によってもたらされるであろう、いくつもある結果のうちの一つでしかない。ユーザーニーズが多様ならば、集中も独占も起こらない。

市場原理の大原則は、機会の平等にある。あらゆるものに対し、同じようにチャンスが与えられなくてはいけない。従って、最初から多様性を排除するとことは、競争の否定である。恣意的な排除や肩入れがあったのでは、市場原理は機能しないのだ。だから、市場原理こそダイバーシティーともっとも親和性が強い。価値観の多様性を担保するものは、国家権力ではなく、自由主義に基づいた市場が機能していることにある。

こう考えると、差別や階級格差は根強いものの、世界でもっとも市場原理が貫徹しているアメリカで、もっとも多様なマイノリティー文化が花開いている理由が良くわかる。人種にしろ、セクシャル・マイノリティーにしろ、小さくても多種多様なコミュニティーが成り立っているのは、その背景にきっちりとニッチマーケットが出来上がっているからだ。

完全競争の下では、少数でも一定のロイヤルカストマーを獲得した商品は、継続的な均衡を実現し、安定的なマーケットを形成することができる。マーケティングでいう、ニッチである。ニッチの存在が担保されるのは、自由な競争が実現しているからである。それには受け手、支持者がいることが重要である。受け手がいれば、マーケットは成立し、持続する。あとは、その市場規模に合わせたビジネスモデルを作り、生産を廻していけばいい。

逆に許認可規制の大きな政府こそ、ダイバーシティーの敵である。だから「弱者」が、バラ撒きを求めて、権力の保護にすがるなど、あり得ない。はっきり行って矛盾である。しかし、日本の左翼や革新政党、その影響下にあった、労働組合や市民運動は、みな究極の目的として、大きい政府によるバラ撒き行政を求め、その果実に自分達もありつくことを目標とした。

確かに高度成長期においては、バスに乗り遅れるな、俺たちにも高度成長の果実をよこせ、というのは、それなりにわかりやすくアピール力があっただろう。おまけに、行政の40年体制、政治の55年体制という、バラ撒き体質の大きな政府志向が社会全体に広がっていたのがベースにある。そういう状況下の戦術としては、バラ撒きを求めることも頭ごなしに否定できるものではない。しかし、それが目的になっては本末転倒である。これでは、どうみても「革命的」とは呼べない。

少数者であっても、マイノリティーであっても、受け手のニーズをキチンと見切ってつかめば、市場原理が働いていれば、ニッチ市場は必ず成立する。ダイバーシティーは、送り手に立ったプロダクトアウトではない。ニッチが成立しないのは、受け手を見ていないプロダクトアウトか、規制の網が強くて自由なマーケット参入が不可能が、どちらかの場合である。「平等」を実現するには、見えざる神の手以外の人間の意思が入ってしまってはいけないのだ。

だから、お上のバラ撒き保護政策に乗ろうとした時点で、自立したニッチマーケットが成立する可能性は消えてしまう。保護主義的なバラ撒き農政が、農家の経営意欲を削ぎ、利権に群がるためだけに農家を偽装する「第二種兼業農家」を大量に産み出すこととなったのと瓜二つである。逆に、マーケットインに徹すれば、かならずそこにニッチマーケットは成立する。マイノリティーだからこそ、高いロイヤリティーを発揮するからだ。

マイノリティーならばこそ、権力による保護を求めるより、起業を目指すべきなのだ。日本には世界に誇るゲイタウン、二丁目文化がある。これも、自らゲイ関連ビジネスを立ち上げた人達が、マーケットを作り、コミュニティーを作って行ったからこそ生まれた成果である。志を同じくする人がいれば、ニッチマーケットは必ず成立する。ニッチマーケットが自立すれば、そこに居場所は生まれる。マイノリティーである誇りを持って、仲間のためにも起業しよう。


(15/03/06)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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