感盲




感受性は、人によって大きく差がある。それは、感受性が生まれながらのものだからだ。産科とかで、生まれたての赤ちゃんが並んでいるところをみると、すでに一人一人が驚くほど個性豊かなのに驚く。それだけではない。母親の胎内にいるうちから、環境の変化を感じ取って、不安そうに動き回る神経質な子と、何が起こっていても平然と寝ている太っ腹のおっとりした子とでは、歴然と反応が違う。

感受性とは、一人一人そのくらい違いが大きいものなのだ。そういう意味では、美しいものを素直に美しいと感じ取ったり、美味しいものを素直に感じ取れる人は、実は少ない。自分の感じたものを感じた通り、自信を持って主張するのはかなりの勇気が必要である。だからこそ、権威やブランドに引きずられて、理屈でそれが美しい、美味しいと理解している人は多い。しかし、それは本当の美しさや美味しさを感じ取っているわけではない。

そもそも感受性は感覚であって、知識ではない。しかし、元来心で感じ取るべきイシューを、知識で理解しようとしている人が日本には多い。そもそも、日本の学校教育のシステムがそうなってる。困ったことに知識が多ければ、自分が感じる力を持っていなくても、ワインの蘊蓄を語るようにそこそこ格好がつく。しかし知識で処理しようと思っても、未知のモノと出会った時には対応できない。こういうときにこそボロがでる。

自分の感じたことを、素直に、自分の言葉で、自信を持って語れるか?これが、ポイントである。これは、創作こそしないものの、まさに自分を表現するプロセスと同じである。創作の前段階と同じなのだ。自分が感じたものを、きちんと自分で受け止められる。それを外側に向かってカタチにできるかどうかはさておき、表現する上で一番大事なのは、この感じる力である。

これがなくては、どんなに優秀な技術を持っていても、スゴい職人以上にはなれない。アーティストになるなど夢のまた夢である。逆に技術はなくても、感じる力がある人の方がアートの世界においては存在感がある。有能な新人を発掘してパトロンになる画商やキュレーターにはこのタイプも多い。こういう感受性がある人は、心の中に自分が感じたイメージの蓄積が豊かにある。この蓄積の大きさを、心のB/Sと呼びたい。

企業経営においては、P/L上いくら潤沢な利益が出ていても、過少資本なら自転車操業にならざるを得ない。繁盛してる「パパママストア」がこの典型例だろう。P/Lこそキレイだが、資本の概念や投資の概念がない。これでは、店頭では盛んに金が動いていても、事業経営としての安定・拡大は無理である。技術だけは超一流でも、心の中に表現したいモチベーションがない人は、いわばこの状態なのだ。

ここで重要なのは、心と技術の関係が片務的であるということだ。技術だけの人は、心がわからない。その一方で、心がわかる人は、技術もわかる。しかし心を持っている人は、現代の日本では圧倒的に少数である。このため、圧倒的に技術先行、職人中心の社会になってしまっている。技術だけの人は、肩書きや筋書きで「理解」することはできても、自分の言葉で感じとることができない。いわば名作と言われているから、スゴいと思うだけで、そこからなにかを感じているワケではないのだ。

心の受容器がなくなってしまっているから、感じ取れない。赤ん坊の頃にはあったのかもしれないが、退化してしまっている。それを大人になると勘違いしていたのが、20世紀の日本だった。自分の感覚を失い、知識だけを頼りに生きてきた日本人。確かにそれで効率的に高度成長を実現したことは間違いないし、それで得た経済的メリットも大きいだろう。しかしそれにより、失ったものも余りに多いのだ。まさに20世紀は失われた世紀である。

味を感じることができない人は「味盲」と呼ばれる。同様に文字が読めず文章を受け止めることができない人は、「文盲」である。感じることができない人。受け止める能力がない人、能力が欠如している人は、世の中にいろいろいるのが現実である。その体で言うならば、感じることができない人は、まさに感覚の盲人、「感盲」である。こういう人達が存在し、そちらの方が多数であるという現状を、きちんを理解することが必要なのだ。



(15/03/13)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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