利権恋しや





失われた10年以来景気が低迷し、低成長時代が続いている。本来なら、こういうときこそ大胆な改革を行い、百年の計を立てるチャンスなのだが、一向にそういう動きは起こらない。それどころか、もはや神風は吹くまいという、ある種あきらめのムードが定着さえしている。もともと景気任せ、風任せで、リスクを取ってまで経営努力をしないのが日本人である。風が吹かなくなると、手も足も出なくなる。

そこでみんなが頼り出すのが、お上による「バラ撒き」である。一方でバラ撒きで利権を作ろうという官僚が、税金の使い道を握っているのに呼応する形で、「それを我々にも」と欲望丸出しになる輩がいる。節分の時など、大きな社寺ではタレントなどを呼び、縁起豆を撒くイベントを行なうことも多い。その時我も我もと争って縁起物を取り合う群集のシーンは、ニュースなどで良く放映される。まさに、それと同じである。

こういう構造があるから、「日本的圧力団体」は欧米の圧力団体のようにロビイングによる政策実現ではなく、バラ撒きの分け前を求めることを第一に行動する。そのうち、団体の活動目的自体が、「少しでも多くバラ撒きにありつくこと」になってしまう。「エセ同和」など、その典型的な存在である。役所の側が「臭いものにフタ」的に、モメる前にバラ撒くことを見抜けば、簡単にゴネ得が得られるということである。

「道路建設反対」など、「反対運動」を行う「住民運動」も同じである。これも「臭いものにはフタ」という、役所の行動原理を見抜いているので、ゴネればゴネるほど、補償金が増えることになる。だから、まずは「反対から入る」ことになる。その方が得だからだ。主義主張は後付けである。労働組合や革新政党、市民運動などは、みんなこれだ。そのうち、やってる当人が、方便の主張を信じ出したりするから困ったものだ。

そこまであからさまでなくても、後ろ向きの気風は日本のマーケットに蔓延している。こういう環境では、財布の紐が固くなった民間の顧客のフトコロを狙うのは難しい。そこで、あっさり狙いを変え、みんながおのずと狙うのは役所の予算ということになる。官公庁の予算は、取り合いの競争こそ激しいものの、成果については費用対効果の概念がなく、定量的な形式要件さえ満たしていればクリアできるので、一旦発注を受けてしまえば、実にイージーである。

しかし、官公庁の予算は元をただせば税金。集めるにも使うにも、何も経営努力のない資金である。それを獲得しても、何のイノベーションも生まれず、成長にも繋がらない。リスクテイキングがない。ケインズ的に「バラ撒き」を正当化する理論もあるが、これとてあくまでも公共事業が「呼び水」となって、周辺領域への波及効果を狙ったものだからこそ意味がある。単に役所の予算を貰って予定調和で使うだけでは、経済は縮小再生産しかなくなる。

本来低成長の時ほど、大胆にリスクテイキングしなくてはいけない。市況に流されないV字回復こそ、経営者の手腕の見せどころである。グローバルに活躍する企業ほど、ここがしっかりしている。風任せの日本企業など、とてもかなわない。オーナー企業を除くと、腹をくくってリスクテイキングができる経営者など、日本には存在しないといってもいい。この差が大きかったからこそ、結果的に日本の製造業は競争力を失ってしまった。

クールジャパンと呼ばれるゲームやアニメでも、状況は同じ。企画力という面では、海外企業に負けている。職人的な製作プロセスのクラフト・作り込みの技術には、たしかに今でも優位性はある。しかし、それはあくまでも映像作品をつくるための「手段」である。「手段」は、企画力、演出力、プロデュース力があってはじめて活きる。力の入れどころが、付加価値という視点から見ると、本末転倒なのだ。

技術力があっても、それを活かすマーケティング力(アイディア力)がなければ、宝の持ち腐れである。そして、組織ではなく人に付属するマーケティング力をどう生かすかは、経営者の手腕にかかっている。これまた、日本人や日本の組織が全く苦手とする領域である。これでは、いつまでたっても、「世界の下請け」からは脱せないし、コスト的に割が合わなくなれば、切り捨てられるだけだ。

かつて、1945年8月15日太平洋戦争に敗戦し、進駐軍がやってくると、日本の大衆は一夜にして、天皇陛下万歳から、マッカーサー元帥万歳に変わってしまった。日本の大衆の本質はここにある。自分で考えない。自分で責任を取らない。権力に甘えつつ、なんでもお上のせいにする。責任を押し付ける相手でさえあれば、「お上」の中身は何でもいいのだ。それが良いとか悪いとかではない。これが実態ということは、歴史が証明しているのである。

これでは、グローバルな活躍は無理というもの。自分が責任を取り、リスクを取ってはじめて、果実が得られる。これがグローバルゲームの基本ルールである。責任を取ろうとしない人は、ゲームの主役として参加することができない。グローバルには、こういう性根を「植民地根性」という。列強に権力を握られたら、日本人はたちまち欧米の支配者にヘエコラするだろう。明治維新の元勲たちは、よくわかっていた。

それは、江戸時代における武士階級と庶民階級の関係をよく理解していたからである。庶民は、無責任で依存心が強い。であるからこそ、一刻でも早く近代的な西欧列強型の立憲君主国家を樹立する必要がある。そしてそれが確立すれば、しっかりとそれについてくるはずである。実際、そのようなヴィジョンに従って、明治国家の建設が行なわれた。目論見は成功し、日本は独立国家でいることができた。

このスキームは、19世紀においては機能していたが、20世紀に入っての世界的な大衆社会化と経済成長の中で「誰も責任を取らない体制」ヘと変化してしまったことは、すでにここで何度も述べた通りである。いずれにしろ、今が岐路であることは間違いない。あまり望ましくないが、円安を活かし、一段と労賃を切り下げて「世界の下請け」に戻るもの一つの戦略だろう。それとて、道は腹をくくって意思決定をしてから取るべきである。

何も考えないうちに、雰囲気に流されてそれしかとる道がなくなってしまった。というのが最悪である。しかし、日本の歴史をみると、責任を取らず、意思決定を先延ばしにしている間に、にっちもさっちも行かなくなってしまったという事例が余りに多い。ならば、意思決定すべきである。そして、意思決定するならば、けっして「世界の下請け」に戻るというような、後ろ向きの選択にはならないはずである。一人一人の自覚を求めたい。


(15/03/27)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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