社会性
それはパソコン通信の昔から変わらないのだが、なぜかITを活用したコミュニケーションメディアを流れる情報を見ていると、なんと世の中には「アホ」と「困ったチャン」が多いのだろうかということに驚嘆し、落胆するのが常である。昔のようにエッジなアーリーアダプタだけがそういうメディアを使っていた時代はさておき、一般社会となんら変わらないメンバーが居並ぶようになった今でも、それはなぜか変わっていない。
そういう有意な差があるとするのなら、インターネット上の話題の拡散と、リアルな口コミの拡散とでは、一体どこが違うのだろうか、参加者が同じ以上、違いが起こるとするならば、情報を伝播する仕組みの部分である。機械系による伝播か、人間系による伝播か。違いが起こるのは、ここしかありえない。逆にいえば、「アホ」と「困ったチャン」の発した情報は、人間系ではいつの間にかカットされてしまうが、機械系ではそのまま伝達されるということになる。
すなわち、人間系における口コミの伝播には、ある種の「フィルタリング」がビルトインされている一方、機械系ではそういう「フィルタリング」がなく、全ての「書き込み」が等価に伝達されてしまう。それは基本的に、人間系においては、口コミで自分の聞いた全ての情報をそのまま伝えるのではなく、自分か聞いた中から誰かに伝えたい「面白いネタ」を選び出して伝えるからである。このプロセスを何度も何度も繰り返すことにより、アホ=ノイズは除去されてゆく。
ウワサ話がフェイス・トゥー・フェイスで伝わるとき、だんだん尾鰭がついて、より面白く、より大げさになるコトはよくある。同様に、ファクトではあっても、つまらない話は、どんなにプッシュしても、まったく広まらず話題にすらならない。これらの例は、人間系の口コミにおいて、フィルタリングが強力に機能しているコトを示している。不特定多数者の間で話題にされることにより、自動的に情報の選別が行なわれるのである。
こうやって多くの人の話題に上った口コミ情報は、最初の「個人的な話題」から、ある意味「社会的存在」になっているのである。インターネット上に投稿された書き込みや映像も、けっきょく人気を呼ぶものはこういうリアルの口コミのフィルタリングを通過したものに限られる。テレビ番組のヒットも同じ。同じ時間帯の番組なら、視聴可能な視聴者は同一なので、機会は平等だが、その中でヒットするのは視聴者に選ばれた一つだけしかない。
インターネットといえばつきものの「炎上」も、同じメカニズムがバックグラウンドにある。誰もがヤバいという印象を持っている、いかにも怪しい企業・胡散臭い企業がなんかやらかせば、ホラ見たことかとばかりに、たちまちにして炎上し、どんどん火の手は大きくなる。実際にはそんな事実がなくても、さもありなんとばかりに、どんどん「被害談」が増えて行く。そのうち手か付けられないぐらい盛り上がるが、まさに「火のないところに煙はない」とでもいうべき、自業自得な結末である。
その反面、信頼されている企業や好意度の高いブランドの場合は、なんか事件があったとしても、「文句つけている方がクレーマーだ」となって、すぐ鎮火してしまう。それこそそいう相手に対して、イメージを傷つけようと思って悪いウワサを流しいくら焚き付けても、まったく炎上しない。これを執拗に繰り返すと、今度はけしかけている側の方が、人を貶めようとする卑劣なヤツというレッテルを貼られることになる。
ある意味人間系であれば、その場に特有の「空気」がある以上、あまりに寒いネタ・痛いネタは、その「空気」に揉み消されて、自然消滅してしまうのだ。「アホ」とは、場の空気が読めず、コミュニケーション環境を破壊するアスペなヤツのことである。リアルな世界では、こういうヤツが何を叫んでも、声は届くことはない。そんなヤツの発言は誰もが無視しており、ウワサとして次に伝える人がおらず、伝搬しないからだ。
声にならない以上、ブツブツ文句は言うだろうが、サイレント・マジョリティーになるしかない。現実には、こういう連中は金魚のフンよろしく、多数派のシッポにくっついてまわっている。しかし機械系では、広くあまねく誰でも書き込めるし、書き込めば、誰が書いたものでも同じように衆人の目に触れることになる。誰に対しても、文字通り機械的に機会の平等を担保してしまう。機械は、内容を見て伝えるべきか、伝えない方がいいか、判断できないからだ。
実は世の中には、空気が読みきれない「アホ」の方が多い。そんなことは百も承知。アホでも選択権はあるし、その結果、世の中でのヒットが決まる。民主主義とはそういうものである。リアルな世界では、黙々と行動で示せばそれなりに存在感はあるのだ。しかし、この方々は言語能力も著しく劣っていることが多い。つたない思考をつたない表現で書き散らかされては、たまったモンではない。かくして、現実世界では「電波系の張り紙」ぐらいでしか見かけないレベルの書き込みが、ネット上に溢れることになる。
かつて80年代に、ワープロソフトの需要予測のために、日本人の大人が、どのくらい文章を書くのか調べたことがあった。「この一年間に文章を書いたことがありますか」という質問に対し、Yesと答えたのは僅か3割。あとの7割は、手書きの時代には文章を書いていなかったのだ。もっというとその7割の方々は、そもそも文字自体を書かない。せいぜい自分の署名と年賀状の宛名ぐらいのものだったのだ。
こう考えると、SNSなどが普及した今のほうが、余程文章を書く人も多いし書く量も多い。逆に言えば、この「文章を書くことへの敷居の低下」が、レベルの低下をもたらした。ちょうど90年代以降、大学数の増加による大学進学者数の飛躍的な増加が、大学生の学力レベル低下をもたらしてしまったのと同じである。SNSサービスの流行り廃りが激しいのも、けっきょくはこの「普及」「ユーザ層の広がり」がもたらす弊害のためなのだ。ある意味これは構造的、宿命的。あきらめるしかなさそうですな。
(15/04/03)
(c)2015 FUJII Yoshihiko
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