自己アイデンティティーの獲得





個人のアイデンティティーが問われる時代である。ところで自己アイデンティティーを持っている人の中にも、二つのタイプがある。それは単独でアイデンティティーを示す人と、組織の中でアイデンティティーを示す人だ。これは得手・不得手の問題であり、スポーツでいえば種目の違いである。野球やサッカーのように、チームによる団体戦を前提とした種目でも世界レベルで活躍するトップ選手なら、間違いなく類まれな自己アイデンティティーを持っている

選手一人一人が個人レベルで絶対的なアイデンティティーを持っていれば、それが発揮される場は、個人戦か団体戦かは問われないのだ。問題になるのは、個人レベルのアイデンティティーが、相対的なものでしかない場合だ。なんとかの再来、第二のなんとかみたいなヒト。長島二世などと呼ばれる選手である。変努力している。よく勉強している。しかし、やっていることは、マネでしかない。これでは、「第一の何某」は絶対に越えられない。

日本人には、スポーツ選手や芸術家でもこのタイプは多い。しかしなっといっても、このタイプの典型といえば、コツコツ頑張って高偏差値を獲得した秀才である。ビジネスでいえば、肩書でしか仕事ができず、裸単騎では箸にも棒にも引っ掛からないヒトである。組織全体が追い風で好調子なときは、人一倍パフォーマンスを発揮する。しかし、一旦歯車が噛み合わなくなると、もはや手も足も出ない。こういう「エリート」が多いのである。こういう人材は、世界的には通用しない。

学んで知識をつけた秀才は、自分の知識の中に答えが書かれているものに対しては、圧倒的なパフォーマンスを示すことができるが、前例がないこと、正解がないことに対しては、からっきし歯がたたない。自分の知識の中に答えが書いていないものに対して、答えを導き出すことができないのだ。しかし、人間生きてゆく上では、前例のない出来事に出会うことが多いだけでなく、そういう分かれ道ほど本当にクリティカルだったりする。

そういう判断においては、理屈は役に立たない。正解がないのだから、論理的に答えを導き出すことはできない。そこで必要になるのが、自己責任で腹をくくった決断である。選択の結果がどうなろうと、自分が全責任を負うから、そちらを選ぶぞ、という意思決定である。しかし秀才には、これも不可能である。論理的に既知なことしか対処したことがないため、自分ゴトとしての判断など、とても無理な話である。

逆に、自己資金を投資するヒトは、常に自ら腹をくくった判断を求められる環境にある。その投資がウマく行くか行かないかは、「神の手」の市場原理がマーケットのベースになっている以上、まさに「神のみぞ知る」である。どんな理論も、気休めにこそなれ、正解を導き出すことはできない。常に自己責任が求められている。ある意味これは秀才の対極にあり、そのような判断を行なっているというだけで自己アイデンティティーがあるといえる。

明治の初期。19世紀においては、豪農、豪商といった各地域の資産家が投資家となり、自らのリスクで鉄道をはじめとする各種新興産業に投資し、近代日本を起ち上げていった。中には篤志家となり、インフラ整備や人材開発といった短期的なリターンは見込めないが、社会資本としての意義が高い分野にも、積極的に投資し、社会貢献を行った人達もいる。全ては、資産を持っている人が、自己責任で行なってきたことである。

要は自らリスクに挑戦してリターンを取るかどうか。資産がある人にとっては、家、すなわち資産は自分のアイデンティティーでもある。自分の役割は万世一系で脈々と受け継がれる資産を、守り、かつ増やすことにある。従って、奇手に走ることなく、それなりにリスクを取ってリターンを得なくてはならない宿命を背負っている。この「帝王学」を子供の頃から叩き込まれてきた人ならば、自己アイデンティティーはおのずからあるのだ。

背負っているもの、失うものがない人にこれを求めるのは難しい。そういう生まれ・育ちの人間が、いくら勉強を努力し、知識をつけたところで、このように腹をくくって自己責任で行動することは不可能である。同様に、自己アイデンティティーを持ち、他人の猿マネではない、自分らしい生きかたを示すことも不可能である。ここには、どんな努力を払ったところで乗り越えることのできない、深い谷間がある。「民主主義」の美名の元に、この現実のギャップに目をつぶっていられる時代はもう終わったのだ。


(15/04/10)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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