それ三界はただ心一つなり





人間の多様性を認め、互いにその違いを尊重し合うところから、社会の新しいカタチを考えてゆく、「ダイバーシティー」という考え方が世界的に広まっている。このような考えかたは、一神教的に共通部分を強調し多数と少数の二元論に持ち込むのではなく、百人百様の違いを大切にし合うという意味では、西欧などキリスト教の国々でこそドラスティックなものとして捉えられる。

ある意味、八百万の神であり、人間だけでなく、動物にも植物にも、はたまた山や川、さらには地面に転がる石の一つ一つにも、それぞれの神が宿っているという考えかたをベースにした日本的な世界観は、「ダイバシティー」との親和性は、一神教に比べればかなり高いということができるだろう。それでも幕末の開国以来200年近い近代化の流れの中で、相当に西欧流に毒されてきたことも確かである。

「ダイバーシティー」的な考えかたのベースは、無理して規範に合わせるのではなく、自然にありのままの自分でいることこそ善であり美しいというところにある。そういう意味では、現代社会においては「マイノリティー」と呼ばれる人々の方が、自分の心に素直でああり、ありのままの自分でいたいと思っている。マジョリティーに与するために自分を偽ることができない人たちが、マイノリティーとして生きる道を選んだのが、産業社会の時代である。

元来、人間は一人一人嗜好も信条も異なる。自分に素直でいれば、マジョリティーにはなり得ない。全てが平均値の人間など存在しないし、それが多数を占めるということもあり得ない。逆にマジョリティーが成り立っているということは、そこに属する人達の間では、自然とは違う何か意図的な力が働いているということになる。そこでは、自然なものが捻じ曲げられている。

マジョリティーでいるためには、程度の差こそあれ、自分の心を偽る必要があるのだ。マジョリティーとは煩悩である。マジョリティーでいられれば、ある意味メリットもあるし楽でもある。しかしその一方で、自分を偽らなくてはならないため、同化圧力に常に晒されることになる。ここにはメリットとデメリットのトレード・オフがせめぎあっている。

高度成長期のような右肩上がりの時期には、マジョリティーにくっついていた方が、おいしいオコボレにありつける可能性が高い。メリットの方が多いのである。しかし、安定成長になると、バラ撒かれるオイシイ餌は減り、プレッシャーの方が大きくなる。だが、中にいる人は、なかなかそれに気付かない。相変わらず、我慢して従順にしていれば、役得にありつけると思っている。

特にこの傾向は、女性に比べ、生活力、生命力に劣り、一人で生きてゆく力に乏しい男性に顕著な傾向である。このため、真面目なヒトほど、組織や社会に過剰に同化することになる。これが破綻した結果起きたのが、いわゆるメンタルヘルスの問題である。企業内で問題になっているメンヘラーは、ほぼ全て生真面目な男性であることが、この事実を示している。

とにかくマジョリティーで居続けるということは、自分に嘘をつくことであり、やせ我慢することである。これが精神的に有害でないワケがない。しかし、貧しい人々は高度成長と出会うと、我慢すれば、右肩上がりの恩恵が自分にもやってきて、お金が入り幸せになれるという幻想を抱くことになる。この幻想が、必要以上の我慢に耐える精神力の根源となった。

それが幻想だとわかったのは、豊かな経済大国になり、安定成長になってからである。豊かな安定社会では、我慢してマジョリティーに迎合しても、我慢せずに我を貫いても、得られるモノに違いはない。「なら自分の道を行く」という人も、無視できないくらい多くなってきた。しかし社会全体としては、それに代わる尺度がない。このため、どんどん矛盾だけが拡大して行く状況になっている。

日本の男性社会の本質は、組織文化として、共同体的な「もたれあう、甘えあう」メンタリティーを色濃く持っているところに特徴がある。マジョリティーでいるためには、心に傷を負うことも多い。しかし、傷つくのは誰も同じ。組織構造には目をつぶり、互いに傷を舐め合うことにより、それを乗り切ってきた。その居心地のよさがあったから、自分の心を偽っても組織人になれたし、その方が得だった。

「女装クラブ」が流行り出した、1990年代。そこに集うヒトたちを惹き付けたキーワードが、「男を脱ぎ捨てる」だった。女装することで、背広と共にこの世のしがらみを脱ぐことができ、社会的ストレスから解放される。このような現象が現れたこと自体、無理して男性社会のマジョリティーに合わせるとストレスの方が多くなってしまうという、矛盾を抱えた男性が増えてきたことを示している。

バブル崩壊により、成長神話が完全に崩れ、もはや右肩上がりはあり得なくなった。その時期と、マジョリティーであることのメリットが揺らぎ出した時期とが一致していることを示す良い例であろう。どちらかというとセンシティブな人ほど、この傾向を顕著に感じたはずだ。そして、鈍感な人と愚直な人達だけがマジョリティーであり続けようとした。この人たちは、精神的に限界を感じつつも、未だにマジョリティーにしがみつこうとしている。

ポイントは、心の持ちようなのだ。自分に素直でいたほうが、苦労もないし悩むこともない。我慢することもないし、心を病むこともない。ポスト産業社会の21世紀を特徴付けるものは、自分を偽ってまでマジョリティーになろうとするメリットがなくなってしまったというところにある。皆が誰しも、自分の心のままに生きればいい。マジョリティーが特別な意味を持った近代産業社会が、人類史上の特異点なのだ。これからは、再び王道を取り戻す時代になるのだ。


(15/04/24)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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