シャッター商店街は、自営マインド低下の象徴





地方都市の駅前商店街などで、旧来の個人商店が立ち行かなくなって閉店し、しもた屋が立ち並ぶ「シャッター商店街」が地方経済衰退の象徴として良く取り上げられる。その論調は、郊外ロードサイドの大型店やショッピングモールを悪玉とみなし、廃業した個人商店を犠牲者として捉えるものが多い。しかし、本当にそうなのであろうか。この点に関しては、もう少し立ち入って検討する必要がある。

そのような商店街のにたち並ぶ商店は、その多くが自営業である。法人化しているところも多いが、いわゆる同族会社であり、実体は個人経営と変わらない。元来自営業においては、オーナー=経営者である。オーナーが自ら個人でリスクを背負って経営してはじめて、その成果を手にすることができる。そういう意味では、組織的法人よりずっと「ハイリスク・ハイリターン」な事業である。

そういう面も含めて、自営業とは起業家の集まりであった。自営業を目指す人にとっては、親方の元に弟子入りし、いつかは一本立ちして自分の暖簾を持つというのが、かつては典型的なキャリアパスであった。これを見ればわかるように、宮仕えの親方日の丸な組織人とは違い、他人に使われ続けるのではなく、いつかは自分の城を持つことを考えていた。これが自営業の基本である。

だからこそ、より楽で安定した生活を求めて、大企業の従業員、当時でいう「サラリーマン」になることにあこがれる人が多かったのだ。そして少なくとも昭和30年代までは、このような「丁稚・暖簾」分けモデルが大いに機能していた。これが、日本の産業基盤ともいえる、分厚い中小企業を育てた。製造業だけではなく、商店や飲食店でも暖簾分けによる起業が盛んに行われていた。

日本の中小企業の多くは、このような「一本立ちして、一旗上げる」モデルの中から生まれてきた。実は自営業としての日本の中小企業は、ベンチャースピリットあふれる起業家の集団だったのだ。だから、そういう中から、松下幸之助氏のPanasonic、本田宗一郎氏のHONDAなど、世界での先端で活躍するグローバル企業が生まれてきたコトもうなずける。そのようなDNAは、財閥系企業にはないものである。

すなわち、もともと自営業は、企業家精神に溢れ、進取の気風を持って自立していたものであったしかしそれが、いつの間にか「お上の保護頼り」になってしまった。その転換点は高度成長期にある。自営業・中小企業の中には、高度成長の波に乗り拡大を果たしたところも多いが、発展から取り残されたところはもっと多い。それらが安定成長が続く中で立ち行かなくなり、シャッター商店街や、廃業する中小工場になっているというわけだ。

自らリスクを取り、ピンチをチャンスに変えるリーダーシップがなければ、経営者とは言えない。しかし、こういう没落した自営業・中小企業のオーナーは経営努力をしなかった。それどころか逆に、自分の努力よりはお上の保護、つまり「大きい政府」に甘えたいという発想に傾斜してしまったのだ。彼らはやる気がなく、要は経営者としては失格なのだ。

こういう事情を見て行けば、駅前商店街が廃れたのをロードサイドのショッピングセンターのせいにするのは、いかにお門違いか理解できる。お客さんからすれば、ショッピングセンターの方が、欲しいものが、安くて豊富にある。だから、足を運ぶのである。一方駅前商店街のパパママストアは、品揃えもよくないし、割高である。

ショッピングセンターの方が、お客さんの気持ちになって、魅力作りをしている。その結果として、お客さんが集まっている。消費者目線で考えれば、当たり前のことである。かつての商店街では、健全な競争が行われないことにあぐらをかいて、経営努力を怠ってきた。まさに、シャッター商店街とは、犠牲者ではなく、努力をしなかった自業自得の結果なのである。

補助金や各種支援策といったバラ撒き行政にどっぷりつかり、真のお客様である消費者のことをかえりみず、無視し続けてきたツケが回ってきたに過ぎない。シャッター商店街は、自営マインド低下の象徴である。同じコトは、自助努力をせず補助金バラ撒きだけを求め続ける、第二種兼業農家にも言える。こういう「脛齧り」な連中が、日本の競争力を弱め、財政赤字を増やしている。日本の国を喰いモノにしている本当の悪玉はだれなのか、ちゃんと目を見開いて直視する必要がある。


(15/05/01)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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