適当でいい加減な人間ほどグローバルに通用する





日本でグローバル化というと、すぐ語学だ、英語力という話になる。これは昔からそうなのだが、グローバル化が日常的な問題となった昨今でも、状況は全く変わってきない。しかしこの文脈で求められている「英語力」像は、「コミュニケーションツールとしての英語を使いこなす能力」からは大きく解離しているのだ。昔からこれが最大の問題なのだが、改善された兆しはほとんどない。

日本で「英語力」というと、なぜか「ネイティブよりもきれいに喋り、一語も漏らさず聞き取り解釈する能力」ということになってしまう。求められているのがコミュニケーションツールであり、別にBBCのアナウンサーになろうというのでも、英語圏の国語教師になろうというのでもない以上、そんなハイレベルの英語力は必要ない。

英語圏のネイティブスピーカーの大多数、特に米国人の「英語力」はそこまで高くはない。いろんな訛りやローカルな言い回しがあふれているので、そもそもそんなにキレイではないし、全てを聞き取ることは不可能である。それでも社会は廻っている。コミュニケー^ションツールというのは、そういうものである。しかし、なぜか日本人が考えると「英語道」みたいなものを考えてしまい、それを極めることを目指してしまうのだ。

そもそも言葉というのは、全部正確に聞き取る必要はないし、聞き取ることなどできない。それでも会話は成立するのが言葉なのだ。考えてみてほしい。普段話している日本語だって、一語一語細大漏らさず聞いているわけではない。大体の会話はいい加減に聞いているし、それでコミュニケーションが成り立っているではないか。そういうものである以上、外国語だけ正確に聞いても仕方ない。

さて、世の中には人の話をちゃんと聞かなくても、ウマくコミュニケーションを成立させてしまう「いい加減な人」がいる。こういういい加減な人は、どこでも、誰に対してもいい加減に接する。それでいて人間関係をうまく成り立たせてしまうノウハウを身に付けている。人と人のコミュニケーションの本質は、こちらの方にある。正確に話し、正確に聞き取り、正確に解釈することがコミュニケーションではないのだ。

生真面目に相手の発言を正確に追わなくては話が理解できないというのは、ある種のコミュニケーション障害である。相手の心を読むことが出来ないというのと、ほとんど変わらない。もしそれが許されるとすれば、相手が心優しいからである。これはある意味、暗黙の了解などと同じように、相手と必ずコミュニケーションが成り立つことを前提にした、コミュニケーション上の甘えであるといっていい。

大陸国家では、相手とは基本的にコミュニケーションが容易には成り立たないのを前提に、意思疏通を図らなくてはならない。世界的に見ると、アメリカ人とか中国人とか、大陸大国に住む人々は、このあたりが実にウマい。生活の知恵というか、こういうコミュニケーションのやり方に長けている。情報理論的に言えば、相当にノイズの乗った情報であっても、きちんと要点を復元して把握することが出来るということになる。

同じ英語でも、米国人と話すときと、英国人と話すときとでは、コミュニケーションツールとしてずいぶん異なる。英国人は、かなりきっちりと話してくるし、こっちもかなりきっちり話さないと通じないが、米国人とならそうとういい加減でも会話は成立する。怪しい活用形を使うヤツや、キタナイ言い方をする連中も多い。それでいいのである。道具であり、手段である。通じればいいのだ。そして双方が 通じさせようという気持ちを共有してれば、なんとかなるのである。

これは言語に限らない。生真面目さはローカルだが、いい加減さは世界どこでも通用する。世界的に見れば、ガチンコのフェアプレイなんてのは絵に描いた餅。騙しでも八百長でも勝てば官軍という勝負がほとんどである。よく、世界大会などで日本人が努力の末に秘技を編みだし、それで優勝すると、レギュレーションが変えられて秘技が封じられてしまうことがよくある。F1しかり。水泳しかり。

こういうことが起きると、日本人はフェアじゃないとブーインクするが、これがグローバルの掟なのだ。勝つためにはルールを変えることまで含めて、戦略的に対応する。単にプレーヤーの努力といった、戦術レベルの対応など無力である。オセロで、一個の石を取るかどうかにコダわるがあまり、全体の勝負が見えなくなるようなものである。これじゃ、オメデタイ日本人が勝てるワケがない。

つまり、日本が世界に通じないのは、「努力した秀才」を評価するようになっているからだ。それはある種「悪平等な能力共産主義」である。そんなものが幻想だったのは、20世紀の歴史が証明している。世界的には、お手々つないで仲良く平等などありえない。そして、秀才とはそういうスキームの中でしか通用しないコンピタンスである。なんだか知らないが、破天荒でコミュニケーション能力の高いヤツ。こういうヤツこそ、グローバルに通じるのである。


(15/05/22)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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