潜在意識民主主義





現代においては、世界の先進地域のほとんどが民主主義をベースとした社会となっているる以上、究極的には世の中はより多くの人が望んでいるところに落ちる。もちろん、それぞれの社会によって、成熟度や民度が違いなど発達レベルに差がある以上、その速度や実現度には差がある。しかし、世の中全体が「大衆」が求めているところに落ち着くという方向性は、誰も否定できない。

さて、現代の民主主義社会の特徴は、その「求めるもの」が意識上か、潜在意識かを問わない点にある。特に日本のように、豊かでフラットでなおかつ情報化の進んだ社会ではひときわ顕著である。ここでいう民主主義とは、単に政治制度にとどまらない。人々の「選択」する行為自体が、市場原理により社会全体の方向性を決定付けるものとして機能すること全てを指し示している。

こういう社会においては、人々が、自分の好きなこと、楽しいことを選ぶという日常行為自体が、代議制選挙の投票以上に、社会の進む方向性に関する選択になっている。上から押し付けようとしても、みんなそっぽを向いてしまう。どんなに金を使ってマスメディアに情報を載せても、みんなが選んで見てくれない限り「視聴率0」。その影響力は皆無である。大衆が決めるという意味では、これは究極の民主社会である。

このように市場原理の「選択」により社会の方向性が決定付けられる場合、選挙のような理性的な政治選択と異なり、意識下で求めているものも、結果的に具現化してしまうところが重要である。自分が「それをしたい」「それがほしい」と明確な意思を持っていなくても、潜在意識の中で欲しているものがある場合、理性の壁を乗り越えて、その選択がアタマを持ち上げてくる。

やはりその最たるモノは、20世紀前半のドイツにおける「ナチス」の台頭だろう。現代の西欧のタテマエでは、全ての責任をヒトラー個人に押し付け、ドイツ民族は被害者面している。だがそれは日本の自虐史観と同じで大間違いだ。いやがるドイツ人を、ヒトラーが力で抑えて政策を行なったわけではない。少なくともナチス台頭期において、多くのドイツ人が、熱狂的にヒトラーに期待し支持していたことは否定できない。

多くのドイツ人がユダヤ人に敵意を持っていたのだ。一部のユダヤ人が利権を独占し、私利を肥やしているから、栄光のドイツ民族が不幸にさらされている。それが事実かどうかはさておき、ドイツの大衆がそう信じていたことは、歴史的事実である。それも近代になってから起こったことではない。中世以降、都市部を中心に根強く人々の心の中にあった考えかたである。

それが、第一次大戦後の混乱の中、ドイツに対する戦勝国の過酷な収奪は、英米を中心に世界の金融資本を牛耳るユダヤロビーの陰謀という見方になり、急速にドイツの民衆の中に広がった。こういう状況下であるからこそ、ドイツ人の大多数がユダヤ人に敵意を持ち、その潜在意識の中で、ユダヤ人をドイツから追放しろ!ユダヤ人を殺せ!という主張を持っていた。

これが、ワイマール体制下の民主的な政治システムの下で反映され、大衆の総意としてナチス政権が選ばれた。決して、誰も望まないモノを、力で押し付けたわけではない。もっというなら、ドイツ国民の望まないモノを力で押し付けたのは、ヴェルサイユ条約の戦勝国の側であり、それを良しとしなかったドイツ国民が、自らの意思として選んだのが、ナチス政権である。

それをあたかも、ヒトラー個人に責任転嫁し、ドイツ国民が被害者だったような顔をして、自らの責任をうやむやにしている。結局ドイツ人も「甘え・無責任」。自らの責任を直視したくないのだ。それはさておき、ナチスの台頭は、民主主義が高度に機能すると、人々の潜在意識の中身まできちんと反映された選択になってしまうということを示す、最高の事例であるということができる。

ナチスは、民主主義が行き着くところまで行くと必ず現れる、直系の嫡子である。決して鬼っ子ではない。近代社会における大衆というのは、そういうものなのである。情報化・フラット化が進むと、意識下の志向がストレートに反映されるようになり、結果としてタテマエでなくホンネが表に立つようになる。ポピュリズムといわれるが、現代のそれは「無知な大衆を扇動者が操る」のではない。

なつかしい「ゴーストバスターズ」のマシュマロマンよろしく、大衆の潜在意識の中で思い描き望んでいるものが、具体的なポピュリストとして具現化されてしまうのだ。主権在民でいく限り、民主化が進めば進むほど、フラット&オープン化が進めば進むほど、民衆の潜在意識がストレートに反映され、ホンネが跋扈する世界になる。それはすなわち、近代社会においてはタテマエや理性で押さえ込んでいた領域が解放されてしまうことに繋がる。

インターネットなど匿名の世界が、リアルな世界に比べて荒れるのも、この理性のキャップが効かなくなるからだ。そして、この流れは民主主義を取る限り、非可逆的である。ガルブレイスの「カウンター・ベーリング・パワー」ではないが、選択に関する自分の意思を持った「マスの選択力」に抗することはできない。そういう意味では、マーケティングの発想が、政治や社会を考える上で重要な時代になってきたといえるだろう。


(15/05/29)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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