普及するということ





豊かな大衆社会においては、社会の進む方向付けに関する決定権は、選択する大衆の側にある。未だにこの事実を受け入れようとしない人も多いが、これはまぎれもない事実である。1980年代以降の日本社会の動きこそ、この事実を示す偉大な社会実験ということができる。生活者は、全てを「好き・好きでない」「楽しい・楽しくない」の軸から選択する。そして「好き」で「楽しい」モノだけが社会の基軸となってゆく。

まさに新聞の没落など、二重の意味でこの顕著な例ということができる。新聞の発行部数が激減し、特に中央紙はマスメディアとしての存亡の危機さえみえている。この原因は、よく言われるように「活字離れ」ではない。インターネット上の情報の多くがテキストベースであることを考えれば、人々が文字を読む機会は、インタラクティブメディアの増加とともに増えているとさえいうことができるだろう。

もちろん、紙離れでもない。プリントメディアはどれも苦境ではあるが、それは雑誌でも書籍でも、かつて栄華を誇ったジャンルの落ち込みが激しいからである。相対的に見れば、それなりに安定した読者をキープしているプリントメディアも、まだまだ多く存在する。新聞の落ち込みは、こういうインフラ全体の地盤沈下によるものではない。それは、新聞特有のコンテンツ内容から生じた問題と考えるべきである。

一言で言えば、「上から目線離れ」である。だれかが自分に対して偉そうに意見を押し付けてくるのは、好きでないし楽しくない。だから、新聞を手に取らなくなった。ましてや、金を出して買わなくなった。これだけの問題である。新聞の唯我独尊な上から目線のコンテンツ作りが、時代に合わなくなってしまったのだ。逆に新聞というメティア形式を取っていても、横から目線、下から目線の語り口で語れるなら、それなりの支持を得ることは可能である。

すなわち普及するということは、「好き」で「楽しい」モノと認定されたことに他ならない。そして多くの場合、多くの人々が「好き」で「楽しい」と感じるポイントは、提供者側が想定した機能と大きく異なっているコトも多い。これがよく見られるのは、インターネットの新サービスやスマホアプリである。FacebookやTwitterは、日本でもかなり成功した。しかし、普及した時点で換骨奪胎され、欧米での使われ方と異なる、レガシーでベタな暇潰しの道具なっている。

いや、レガシーでベタな暇潰しの道具として使えたからこそ、日本で広く普及したというべきである。大衆の選択という力は極めて強い。このフィルターを通ることにより、どんなにトガったものも、たちまちベタな存在になってしまう。それと引き換えに、ビッグビジネスとしての成功も待ち受けている。十字路で悪魔に魂を売る「クロスローズ」ではないが、マスに魂を売って、エッジからベタになることが、現代社会におけるビジネスとしては成功のカギなのだ。

このように、高度の情報化した現代は、「上から目線」が全く影響力を持たなくなった時代ということができる。それは言い換えれば、新しい技術やカルチャーが、人間の本質を変えることはない時代ということになる。もちろん、時間配分や生活パターンといった、枝葉末節な各論の部分では、新しい技術やカルチャーの影響で大きな変化起こりうる。しかし、マスレベルでは、それらが人間の本質を変えることはあり得ない。

これを実証したのが、この30年間に及ぶニューメディアブーム、マルチメディアブーム、インターネットブームであろう。技術やインフラはこの間に大きく変わった。だがしかし、人間の本質がどこか変わっただろうか。人間の本質など、1000年経っても大して変わらない。現代人も「源氏物語」のストーリーに共感できることがそれを示している。確かに平安時代とは、言葉そのものは変化しており、そのままでは読めない。しかし、その内容は今も充分生き続けている。

結局新しい技術やカルチャーができるのは、潜在意識の中にあった欲望を顕在化させること、あるいは夢に描いていたことを具現化させることだけである。それは、具体化ではあっても、新しい何かを生み出したのではない。飛行機の発明により、人類は空を飛ぶ 手段を獲得した。しかし、鳥のように空を飛びたい願望は、石器時代の原始人も間違いなく感じていたはずである。技術と人々の心の関係は、まさにここに象徴されている。

上から目線が成り立つのは、貧富の差など格差が激しい貧しい社会で、現状に不満があり上昇志向が強いときだけである。これは、プロダクトアウトが成り立つ条件とも一致する。しかし、それは人類史的には特異点である。人類はその長い歴史の多くを、貧しくとも平等で不満がない状態で過ごしてきた。ここには、上から目線などない。妬みや恨みもない。本来そちらが人間のあるべき姿である。社会の情報化が進むことで、我々は近代の歪みを脱して、あるべき姿に一歩近づけた。状況は、こう捉えるべきなのだ。


(15/06/12)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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