単純な二元論





このところ、世の中を「単純な二元論」で片付けようという論調がヤケに目に付く。互いに「左翼・アカ」「右翼・軍国主義」と呼び合っているような連中が多いのだ。確かに二元論はわかりやすいし、それで社会構造を論じ切った気にさせるところがある。しかし、世の中はそんな単純なものではない。「敵・味方」「善玉・悪玉」とゲームやアクション映画のように切り分けられないのが、現実社会の難しいところである。

元来、八百万の神の国である。人間、動物、植物、はては山や川まで、あらゆるものに神が宿り、対等に存在感と個性を発揮する。日本のネイティブな価値観は、このように多様性を尊重するダイバーシティーな思想に裏打ちされているはずである。二元論は一神教的なメンタリティーに裏打ちされているものであり、明治以降「西欧に追いつき追い越せ」の文明開化の中で、西欧諸国の制度や習慣の影響を受けて移入されたものである。

そういう意味では、日本の二元論は「宗教的信念」に基づく確固たる思想ではなく、「ひとまず二つに分けてみました」的な便宜的な基盤しか持っていない。このため「なぜ二つに分けるのか」については、きちんとした論理性を持っているワケではない。文字通り、「何気なく」二元論のレッテル張りをする人が多いのだ。そしてそういう人に限って、二元論という構造自体に疑いを持つことがない。

こうやって見て行くと、「左翼・アカ」「右翼・軍国主義」という区分は、一見政治的主張の違いのように見えるものの、実はそういうイデオロギーや思想信条の問題ではないことがわかる。そういう「理屈」はあくまでも後付けでしかない。二元論を生み出している主たるモチベーションは、単に自分達のセクトと違う存在にラベル張りをし、自分達の仲間から排斥しようという、「排除の論理」に過ぎない。

昭和30年代の子供たちの遊びの中には、今の価値観からすればある種の「明るいイジメ」とでもいえるようなものが多く存在した。「バカ・カバ・チンドン屋、オマエのかあちゃん出べそ」と相手をののしったり、「えんがちょ」といって、特定の相手を穢れたものとして一時的に仲間から村八分にしてしまったり、といったたわいもない習慣である。所詮はこどものイジメなのだが、この中にすでに「二元論」の萌芽を見ることができる。

そう。この「排除の論理」の意識こそが、イジメを引き起こす基本的なエネルギーてある。それと同時に「二元論」を生み出すメカニズムなのである。高みに立っている者が、端から見下ろせば、まさにどんぐりの背比べ。二元論で罵り合っている連中は、所詮同じ穴のムジナ。「目くそ鼻くそを笑う」の世界である。「左翼・アカ」「右翼・軍国主義」と応酬しあっている連中の品格など、そんなものである。

イジメや差別とは、まさにブービーとブービーメイカーの最下位争いである。この点を理解することが必要である。心が貧しいから、イジメたり、差別したりするのである。それは往々にして、フトコロの寂しさから生み出されることが多い。心の貧しさとフトコロの貧しさには、強い相関がある。二元論に持ち込みたがる人も、メンタリティーは同じ。どちらが最低かというレッテルを張り合う、低次元の最下位競争に過ぎない。

すなわち、多様性を認められないというのは、生活に余裕がなくなったがゆえの、心の狭さ、貧しさを示している。それは、生活のレベルが低く、生きていくのに精一杯で、他の人々をおもんばかる余裕がないのであろう。少なくとも性善説的にとらえれば、そういうことになる。やはりそれは、周りから見ているととても恥ずかしい。恥を知る余裕ができれば、イジメも差別もなくなるし、二元論も通用しなくなる。やはり大事なのは心なのだ。


(15/06/19)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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