世の中に客観はない





基本的に認識というのは、個人の内面の問題である。従って、「わたし」の見ているものと「あなた」の見ているものが同じであるという保証はどこにもない。ところが、日本人は「単一民族幻想」があるためか、アプリオリに「あなた」も「わたし」も同じものを見て、同じように感じているという誤解をしがちである。しかし、それは至って能天気な見解であると言わざるを得ない。

それではコミュニケーションが成り立たないではないか、と疑問を差し挟むひとがいるかもしれない。だがそんなことはない。相手との間で内面的な認識の共通性が担保されなくても、それぞれの中で、次に「それ」を見たときに、「それ」が前に見たものと同じものであると認識できる一貫性が担保されているなら、コミュニケーションは成立する。それぞれの内面で「それ」をどう認識しているかは、コミュニケーション上は問われない。

たとえば、ここに一本の花があるとする。それをあなたは薔薇と認識しているとする。それは、あなたが思う「薔薇」の像が脳内に結像しているからである。その花を同時にわたしが見たとき、脳の中に結ばれている像は、あなたが思う薔薇のカタチをしている保証はどこにもない。もしかすると、それはあなたが思うチューリップと同じ姿をしている像かもしれないのだ。

しかしその像がなんであれ、「あなた」の頭の中、「わたし」の頭の中で、そのタイプの花を見たときに結ぶ像が常に一定であれば、認識は共有できるし、何も問題は起こらない。実は認識の共有とは、この程度のことなのである。共有しているのは実体ではない。形式性の一致でしかない。「シュレディンガーの猫」ではないが、「あなた」の脳内に浮かんでいる像をリアルタイムで取り出すことができない以上、認識とはこのレベル以上でも以下でもないのだ。

すなわち人々の間での認識の共有とは、客観的真実が第三者的に存在し、それをリファレンスとして認識を共有しているのではない。「あなた」や「わたし」、それぞれの主観的な認識が先にあり、それらの間に橋をわたすようなカタチで、認識を共有しているのである。他人の認識の中には、決して足を踏み込むことはできないし、それを把握することはできない。その上で、認識の共有を図ろうとすれば、こういうカタチにならざるを得ない。

「客観」というのは、こと認識が絡むものである限り、大いなる幻想なのである。「客観的認識」が共有できているという幻想は、特に日本で強い。もっと言うと、共有している前提を分かち合える相手としか、コミュニケーション、コラボレーションできない人が多いのだ。これが、日本人、日本の組織が、世界の中で弱いところである。もちろん、それができる人もそれなりにいるが、マジョリティーでは全然ダメ。あまりにおめでた過ぎる。

こんなおめでたいアベレージの日本人は、世界的にはカモでしかない。「客観的認識」という幻想を共有したがっているのだ。認識を共有していない相手と丁々発止やりあえる欧米人からすれば、日本人を騙すなど赤子の手をヒネるようなものである。日本人である私から見てもそう思うんだから、生き馬の目を抜く百戦錬磨の外国のツワモノからすれば、実に甘っちょろい相手に見えるだろう。

ある意味、これは性なんだからしかたない。直せといっても無理だ。しかし、最低限、自分がそう見られているということにコンシャスでなくてはいけない。そう思われていること、そう狙われていること。それは、意識しておくべきだろう。平たく言えば、他人を信じすぎる人が多いのだ。振り込め詐欺が横行するのだって、原因はここだろう。グローバルなコミュニケーション力は、TOEICの点以上に「ダマされない力」がモノをいうのだ。


(15/07/03)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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