感情で済むなら、法律はいらない





現代日本においては、憲法をめぐる議論はなぜか感情論になってしまう。これは現行憲法を守りたいのか、改正したいのかにかかわらず共通している傾向である。客観的な視点から見つめてみれば、そのおかしさはすぐにわかる。そもそも憲法は法律である。法律の話をしているのに、いつの間にか法律以前の精神論を振りかざしている。これでは、本来合理的判断のために存在する「法律」に関する議論が、合理性を失ってしまうという矛盾に陥ってしまう。

本来、感情論に持ち込まないために、法律があるのである。感情論で判断するというのは、決闘や報復リンチで決着を付けることである。それは近代社会にそぐわないので、法律が定められ、そのルールに従って、客観的に判断して決着を付けられるようにしたのだ。すなわち、法律とは社会的な契約である。ところが、日本社会では契約の概念が曖昧である。日本社会が西欧的な意味での「法治主義」になれないのは、ここに問題がある。

そもそも日本においては、商行為などに伴って交わされる契約書も、グローバルな基準から見た「契約」になっていないモノが多い。およそ起こりうることを事前にミーシーに検討し、それにどう対処するか、全てにコンセンサスを作っておくのが契約である。だからこそ、何が起こっても「想定内」になり、決めた通りの対応を粛々とこなせばいい。何か起こってから揉めることも、議論することもない。この安心がほしいから、契約するのである。

しかし、日本の契約はそうでないことが多い。契約こそ結ぶものの、条文の中身は曖昧で、「何かが起こったら、その時協議して考える」のが基本となっている。さらにその「後で協議する」こと自体を条文化して入れ込んでいることもしばしばある。とはいえ、天災のような外的要因ならいざ知らず、当事者同士のトラブルが原因でモメ出した時は、協議どころではない。だからこそ、事前に契約をきっちり交わすのではないのか。

ある意味、これは極めておめでたい話だ。法治ではなく、人治である。人治とは、何も決めないのと同じである。人治であるなら、一旦決めておいても、展開によっては反故にしてしまい、あとは力関係でどうにかしてもおかしくはない。19世紀以降の近代化・西欧化の中で、中途半場に欧米の制度だけを取り入れて、「追いついた」気になっていたツケが、ここにきて廻っているのだ。

契約は当事者間の主観的な取り決めである。だからこそ、不都合があれば、当事者間で合意を得つつ、どんどんリファインしてゆけばいい。契約主義であれば、問題が起こる前に議論して結論を出しておくのが基本となる。急がば回れ。事前に手間がかかるようでも、ステークホールダー同士が冷静に結論を出せるよう、直接の利害問題が発生する前に対応を決めておくのだ。だからこそ、新たな問題点が見つかった場合は、その時点で即どう対応するか結論を出すことになる。

これは法律も同じだ。契約主義の社会においては、法律とは国家と国民の間の契約である。起こりうることを全て事前に網羅し、それに対してどう対処するかを決めておく。それが、契約主義に基づく法治主義である。だからこそ、もしその条文に不備がみつかったら、すぐに改訂し、より精緻なものにアップデートすることが必要であり、基本動作となっている。それが法治主義なのだ。

憲法に関して思考停止になるのは、別に今に始まったことではない。大日本帝国憲法下でも、「不磨の大典」とかいわれていた。憲法に限らず、どんな法律でもそうだが、日本は条文には一切手を触れず、ひたすら解釈と運用でのがれようとする。これは、法治ではない。もっというと、日本の官僚は、ひたすらこの「解釈と運用」での我田引水により利権と権限を拡大してきた歴史がある。

戦前の「治安維持法」を悪法という人がいるが、それは条文を読んだことがない人の発言である。「治安維持法」の条文自体は、当時の西欧民主主義国が皆持っていた「防共法」と大同小異である。当時の国際社会においては、それ自体が反動的なわけでも、独裁的なわけでもなんでもない。「治安維持法」が問題なのは、前にもここで議論したような、その運用が官僚達により恣意的に行なわれたところにある。これは法治ではない。

法律の条文を、誰が解釈してもブレがないように明確化しないのでは、法律を決めていないのと同じ。このベースには、日本のボリュームゾーンが根強く持っている「甘え・無責任」の気風がある。官僚は、自分達の解釈でいかようにも利権が作れるよう、玉虫色の条文を作る。これは、ある意味官僚の習性である。そのほうが自分達にとって都合がいいからだ。しかし、これだけでは制度として定着しない。

労働組合やかつての革新政党など、民間のバラ撒きにありつきたい層も、それを利用する。対立を装いながら、利権構造の共存・共栄を図る。かつての総評の主力組合が、ノンキャリ地方公務員の組合、自治労だったことは、忘れてはならない。日教組も、その構成員は公立学校の教師、すなわち地方公務員である。根っこは一緒。玉虫色のほうがみんなオイシイ思いができるし、みんなそれを望んでいる。

グローバルに通用する、スクエアな法治主義・契約主義を理想とするのは日本では少数である。この事実は、如何ともしがたい。果たして救いはあるのだろうか。幸い、日本人は他人の目が光っていると生真面目になる。ここに賭けるしかない。財政破綻したギリシャ人のように、他人のものを目の前で盗んで、平気な顔をしてしらばっくれるような人は少ない。

それをやるのは、戦後食うや食わずの貧しい時期に育ち、「包丁ジジイ」や「焼身ジジイ」を産み出した、70歳前後の心の貧困な世代だけである。若者は意外なほどルールを守るのが好きである。それなら、法治主義に基づくルールを作ってしまえばいいだけだ。幸い、日本も国際化し、外圧がかかっている。国内向けの曖昧な契約では通じない世の中になっている。あとは、誰が猫の首に鈴を付けるかだけである。


(15/07/10)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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