義務・責任と権利





ギリシャ経済の破綻が、世界経済を揺さぶっている。しかしギリシャ人の主張は、聞けば聞くほど身勝手である。端的にいってしまえば、最初から返す気がないので、自分の返済能力以上に借金をしまくり、「あとは破産するしかないだろ」と開き直っているようにしか見えない。ある意味、自分が返せないのをわかっていながら借金を重ねるというのは、他人の金を泥棒しているのに等しい。

「借りた金は返すもの」という意識を共有していると思うからこそ、相手に金を貸すのである。そもそも最初から反故にしようと考えている人間に対しては、どんなに契約で縛っても、最後はケツをまくって開き直られるのがオチである。まあ、古代ギリシャにおいては市民とは有閑な貴族だけであり、実際の生産活動や経済活動は「奴隷」と呼ばれた一般庶民が行なっていたわけで、その頃からの「伝統」が受け継がれているということか。

しかし、こういう「返すあてがない金を借りてしまう」人は日本にもけっこういる。昨今、請求期限が近づいていることもあり、弁護士事務所や司法書士事務所の「過払金返済」の広告が盛んである。ラジオ局においては、この手の事務所のスポット広告が余りに多いので、扱い代理店ランキングが大きく入れ替わり、弁護士や司法書士の事務所をクライアントに持つ専門代理店が上位に進出するという椿事まで起こっている。

過払金返還に関して、こういう過当競争ともいえる広告合戦が起こっているということは、それだけ借金地獄に追われる多重債務者が多いことを意味する。「ご利用は計画的に」ではないが、こういう人達は、そもそも自分の収入を考えておらず、返すメドかたたないほど借りてしまうから、破綻するのである。返せないお金を借りてしまうこと自体、ギリシャ人と同じ。無責任な犯罪行為である。

最初から収支を計画的にバランスさせ、充分余裕を持って返せる範囲で、キャッシュフローの前借りとして借りるならば、そういう問題は起きない。これが、普通の借金やローンの使いかたである。貸してくれるからといって、返せないほどの借金をしてしまうというのは、やはり借りる側のモラルの問題である。貸す側は年収等はチェックできるが、実際そこから経費を引いた、借り手のキャッシュフローの余裕まではわからない。

というより、こういう状況におちいる人は、そもそも何かをやる上で当然課される前提条件に対し、極めて意識が薄く、安易に考えがちという傾向が強い。当然、借金でなくても、こういう意識があらわになる局面では、いろいろトラブルを引き起こすことになる。その典型的な例が、責任が絡む問題であろう。義務や責任と権利の間にも、借金とよく似た関係が存在する。義務や責任は収入、権利は支出である。

国をはじめとする組織と個人との間の契約関係においては、このような関係が成立している。義務や責任を果たすからこそ、権利を主張できるのだ。もちろん、そのバランスが取れている範囲においては、クレジットカードのように先取り後払いすることが可能である。従って、後で義務・責任を必ず果たせるのであれば、先に権利を主張することもありうる。しかしそれはあくまでも、後できちんと義務・責任を果たせる範囲の中に収まっていなくてはならない。

すなわち、義務・責任を果たさず、また今後とも果たす気がないのに、権利だけ主張するのは、返すあてもつもりもないのに、借金だけを繰り返す多重債務者と同じである。このような傾向は、自らの権利としてお上からの「バラ撒き」を期待する人達に特に強く見られる。弱者を主張して、必要以上に公的な補助を求める「革新政党」や「市民運動」がその典型である。しかし、こヤツらはギリシャ人と同じ。泥棒に等しいのだ。

近代社会の市民としては、「義務・責任」を果たすこと、セルフヘルプの意識を持つことが、なによりもまず求められる。権利は、その先についてくるものなのだ。欧米などの一神教の社会では、これをごまかそうにも「神の目」がお見通しなので、きちんと襟を正すことになる。そういう「抑止力」のない日本社会は、すぐ「旅の恥はかき捨て」になってしまう。超越神への信仰がない以上、これを防ぐものは「他人の目」しかない。泥棒を防ぐのは、なにより「みんなの目」なのだ。


(15/07/17)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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