無産者・有産者





明治維新以降、20世紀前半までの日本社会は、独自の発展を遂げていた近世社会の構造をベースに、比較的親和性の高かった19世紀ヨーロッパ社会の構造をそこに当てはめ、読み替えることで一気に国際社会へのキャッチアップを目指した、当然、そのベースは階級社会ということになる。従ってこの時代においては、階級の違いは強く認識され、その壁は越えられないモノであった。

この時代においては、階級の違いとして「有産者」と「無産者」という区分けが強く認識されていた。これは「階級」なので、階層のようにどちらが上下ということではない。社会的役割が異なっているだけである。従って無産者という言葉は、「貧乏人」のような差別用語ではない。現代人からはわかりにくい感覚であるが、ここを勘違いしないでほしい。実際、労働運動家も自らのことを無産者と称している。

この構造が変化したのは、戦後の「民主化」の影響が大きい。この「民主化」というのがクセモノである。基本的には社会の構造変革ではなく、読み替え、言葉狩りにより、人間は平等であるという幻想をバラ撒いただけである。その詐りの成果を誇示するかのように、個人の成功の指標は、資産の有無から、所得の多寡になった。これとともに、資産家・有産者は存在し続けているのだが、不可視化されてしまった。

世の中から「資産」という軸が消えてしまうと、その歪みはいろいろなところで現れてくる。典型的な問題としては、金銭に関しての評価軸がP/Lベースだけになってしまい、B/Sにコンシャスでなくなることが挙げられる。こういうスキームが、20世紀後半の日本で続いていたため、世の中一般のレベルではキャッシュフローのことしか考えなくなり、「投資」という発想が失われてしまったのだ。

かつての資産家は、投資家でもあった。明治時代の日本経済のテイクオフ期を支えたのは、こういう江戸時代を通して蓄積された、資産家の持つ資本であった。40年体制下での、官僚主導のプロパガンダにより、明治の近代化においては官営工場の役割が必要以上に強調されている。しかし、鉄道や電力といったインフラ、当時の輸出の花形だった繊維産業などは皆、江戸時代からの地場の資産家の資金が投資されて勃興したのはまぎれもない事実だ。

日本の産業革命は、けっして官主導ではなく、江戸時代後期から脈々と培われてきた、民間資産家層の企業家精神と資本蓄積の賜物である。それだけでない。地元の資産家は「篤志家」として、教育などの社会事業や、文化への貢献も積極的に果たした。今で言うCSRである。そこまで含めて、日本的な経済エコシステムができていたのだ。それらは、制限選挙の下、有産者が政治の主導権を持っていたからできたことである。

さていつも論じている問題だが、20世紀に入ると、世界的な大衆社会化の波が日本にも押し寄せてくる。そして、1925年には男子普通選挙法が施行される。確かに、現代の議会制度の基準からみれば、片手落ち、不備な点も多いが、当時の世界の動向から見れば、立憲君主国の議会制度としては、充分民主的である。世界的な動向から見ても、充分にキャッチアップしている制度である。

それにより、大日本帝国が目指していた、19世紀の西欧的秩序に基づく近代的立憲君主国というスキームは破綻をきたしてしまった。そして出来上がった新秩序としての40年体制下。無産者代表の偏差値秀才の官僚が権力を握るようになる。ストレートな言いかたをすれば、これは無産者層とそこから生まれたエリートである、軍部、官僚による革命、もしくはクーデターの成就である。

このスキームは「戦後」も継続している。いや、「民主化」の波により、一段と強調されるようになる。この結果、「一億総給与生活者」なのが当たり前になってしまった。資産が経済的な指標から消え、収入だけで判断されるようになると、資産家の存在感が失われる。資産家は資産は巨額だが、必ずしも年収が巨額なわけではない。資産が生み出したキャッシュを、常に再投資に廻せば、自分の取り分は少なくなってしまうからだ。

この、「投資」マインドこそが、資産家のアイデンティティーである。自ら腹をくくって決断し、リスクを取ることでチャンスをつかむことが、資産家には求められるのだ。「資産家」が不可視化するとともに、この気風も忘れられた。自らリスクを取り「セルフヘルプ」で行動する。この「自営の精神」が社会一般から失われてしまったのだ。日本でベンチャーが生まれにくい理由の一つは、ここに求められるだろう。

しかし、「有産者」は絶滅してしまったわけではない。不可視化されただけで、実は密かに存在している。実際、日本でベンチャーを創業した起業家の大多数が、サラリーマンや役人の家ではなく、広い意味での自営業の家で育っていることからもそれがわかる。これからは40年体制の虚構をはぎ取り、もう一度「有産者」のマインドを復活させるべきである。自己利用の不動産は資産ではない。この意味がわかるかどうか、それが踏み絵だ。


(15/07/24)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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