世渡り力





この数年日本においては、世の中で求められる人間像が、20世紀の後半のそれとは大きく変わってきている。それは「人間力」と言われる場合もあるし、「コミュニケーション力」と言われる場合もある。すでに死語化しているが、「EQ」とかバズワードとなったこともある。言われ方はいろいろあるが、。単に、コツコツ真面目に勉強して、偏差値を高めて、という秀才では、これからの世の中で通用しないという問題意識は共通している。

しかしこれらの議論の問題点は、提示している「求められる能力」が、各論、戦術論でしかない点にある。対案としての「人間像」そのものを提示できていない。だからこそ、同じようなイメージを提示していながら、単なる言葉遊びに落ち込んでしまうのだ。そこで、21世紀的な人間ビジョンとして、「世渡り力」を提示したい。創発力とも言い換えられるが、最終的に「結果オーライ」にしてしまう能力である。

日本社会も、グローバルな外圧に晒され、好むと好まざるとにかかわらず、成果主義で評価されるようになった。成果が出なくては、グローバルには通用しないし、評価されないのである。言い換えれば「結果が全て」なのである。いくらがんばっても、結果が出なくては「0」である。一方、どんな手を使おうと、結果が出ているのならそれはキチンと評価の対象になる。

20世紀の日本社会は、プロセスを重視しすぎた。結果が悪くても、プロセスで頑張ったことを評価してしまう。この悪弊が、社会のあらゆるところにこびりついている。こういう意識が作られた裏には理由がある。右肩上がりの高度成長期においては、追い風に乗ってさえいれば、誰でもある程度のパフォーマンスは上げられた。出てくる結果は、みんなプラスなのである。これが、高度成長期の勢いである。

誰でも、何をやっても及第点が取れる。これでは、結果で評価ができない。当時、サラリーマンは気楽な稼業と歌われたが、まさにそうだった。みんな合格点。それが高じて、客観的な評価ができなくなっていた。このため結果ではなく、プロセスの努力を評価する流れが生まれた。結果は悪平等ともいえるほどみんな良好なので、プロセスの部分のがんばりでしか差がつけられなかったのだ。

一方当時は年功制で、人物評価のできない人間が、長い年数勤めたというだけで管理職についてしまうことも多かった。本来、これでは成果評価はできず、査定ができないことになる。しかし、プロセス評価は、時間管理のような定量的な判断ですむので誰にでもできる。かくして、プロセス評価が日本の標準となった。これとともに「頑張れば報われる」というおかしな倫理観が、社会的に定着してしまうことになった。

しかし、それは高度成長期の日本という、かなり特殊な社会環境をベースとした仕組みである。今生きている日本人のほとんどが、そういう特殊な時代の刷り込みをベースに自意識を形成しているから、あたかもそれが人類史的な常識と思い込んでいるに過ぎない。 人類史、世界史的な視点に立てば、最終的につじつまを合わせ、プラスで終わりに持ち込める能力の方がよほど重要で高く評価される。

戦は勝たにゃいかんし、結果として勝てばいいのである。知識の問題ではない。欧米では、平時と有事で軍隊の指揮系統の人間を総入れ替えするのが常識である。平時は、軍隊といえども官僚組織である。前例や利権を踏まえ、予算や人員をキチンと確保できる、官僚タイプの秀才が重用されるのは世の常である。しかし、秀才では戦に勝てない。従って、有事になると、指揮官は「必ず答えを出す」タイプの人間と入れ代えることになる。

不戦勝でも勝ちは勝ち。どんな手を使っても、勝たなきゃ意味がないのが戦争である。正々堂々フェアな横綱相撲を心がけても、負けちゃったら元も子もない。まさに、結果にオプティマイズし、あらゆる手を使って勝ちに行ける能力こそ、「世渡り力」なのである。これこそ万国共通、古今東西を問わず、人間社会においては最強の能力である。そう思ってみると、日本にだってそういうヤツ、けっこういるのだ。そういう人材こそ、「奇価置くべし」で抜擢すべきなのだ。


(15/08/07)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる