官の補助が文化を滅ぼす





そこに利権が作れる限り、官僚は税金をバラ撒き続ける。この言葉の通り、役所のバラ撒きは、ありとあらゆる領域に広がっている。官がバラ撒く補助金の中には、「文化に対する補助金」というのがある。イベントホールなど、文化事業のためを標榜するハコモノ公共事業は後を絶たないが、最近では経済自体のソフト化を反映し、ソフト的な領域へ直接バラ撒きを行なう事業も多い。

一番多いのは、役所主導の「なんとか芸術祭」みたいなイベントである。この手のモノは中央・地方を問わず多い。これはいわばハコモノと切っても切り離せない、ソフトといってもファームウェアみたいなものである。確かに成功させることは難しいが、ハコだけ作ってあとはほったらかしというのよりはまだタチがいいかもしれない。これだけならいいのだが、最近ではコンテンツそのものに直接バラ撒くタイプのものも増えている。

数年前から話題になっている、「クールジャパン」なんてのは、そのいい例であろう。役人の主張としては、ソフトパワーの時代であり、低賃金でいいモノを安く作る「世界の工場」から脱皮し、世界に文化コンテンツを輸出するようにならなくてはイケないから、積極的に支援し、振興を図るということになるのだろう。一見妥当性がありそうに見える論理ではあるが、これがとんだクワセもんである。

それは、役人がそのジャンルのコンテンツのパワーに気がついた時は、もう旬はすぎているし、形勢も固まったあとだということである。コンテンツ界には、伝播するヒエラルヒーがある。まず、民間のエッジな人、サブカル的なマニアックな世界で火が着く。この段階では、ほとんど知っている人はいないが、その数少ない知っている人々は、そうとうにディープな世界にハマっている。

次に、彼らのフォロワーが登場する。最近だと、ネット上で濃い人達をウォッチして、次にブレイクしそうなものをいち早く見つけては、それを広めるエバンジェリスト達である。ディープでマニアックな世界のトレンドは、次にこういうエバンジェリスト達の間で話題になり出す。ここまでが、いわゆるひらがなおたくの段階。世の中一般からすれば、普通の人は見ないような、インターネット上で限られた人が集う場での話題である。

しかしエバンジェリスト達は、濃い世界の話題を、一般の人たちの目にフレされる役割を果たす。この段階にくると、雑誌や深夜番組などで取り上げられるようになり、一気にオーバーグラウンドの世界に入り、一般の生活者の目にも触れるようになる。とはいえ、まずはニッチである。このアタりで、商業化がはじまる。しかし、まだまだ世間的にはマニアックなイメージはある。ここまではカタカナオタクの段階である。

あとは、地上波や新聞などでも取り上げられるようになり、一気に既知の事実となる。官僚達が気付くのは、やっとこの段階になってからである。たしかに、ひらがなおたくの段階は、数万から数十万。カタカナオタクになっても百万のオーダー。それに対して、一般化すれば一千万のオーダーである。市場としての可能性にカケるのであれば、メジャーになってからでは遅く、ひらがなおたくの段階で手をつけていなくてはいけない。

だがそれ以外にも、一般化する影響は大きい。一般化すれば、その市場規模に合わせて、マーケットが自立できるのだ。ポピュラリティーのあるものは、大型ビジネスとして成り立つ。そうでないアバンギャルドなものでも、或る程度以上知られるようになると、資金を集められるようになる。小金を持った「篤志家」に資金を出して貰うのもいいだおる。今なら、クラウドファンディングで資金を集めるのも容易である。

官僚が気付くような段階に至ったコンテンツは、別に官による補助がなくても、このように自立的に作品を生み出すエコシステムを構築することができる。逆に、こういう状況下でバラ撒きを行なうと、本来自立したマーケットをベースにコンテンツを生み出せるはずのものが、補助金を頼りにしてお客さんを見なくなるという怪現象が起きる。70年代以降フランス映画がすっかり衰退してしまったのは、「ハリウッドに対抗する文化政策」の名の下に、官僚が恣意的に補助金で映画を作らせるバラ撒きをおこなったためである。

20世紀以降の文化は、大衆社会の大衆芸術が基本である。18世紀までの、貴族社会をベースとしたパトロン文化の時代の芸術とは根本的に違う。大衆芸術は市場原理が働き、数の多寡はさておき、なにがしかの支持者がいることが前提となる。メジャーな場合もあるが、ニッチでマニアックでもいい。いわば共感のマーケットがそこに存在していることが大前提となっている。そして、その作品も感覚で味わうのが基本となっている。

平たく言えば、それを良いと思ってもらえる「お客さま」がいれば作品は成り立つし、それがなければ制作費は回収できても作品にはならないということである。そのような時代性の元で、税金を財源にあたかもかつての貴族のパトロン文化のように資金をバラ撒くという、官僚達の文化政策は時代錯誤であると言わざるを得ない。そんな資金をいくら投入しても、誰も見ないし、誰も感動しないコンテンツが死屍類類となるだけである。それは、文化の死にほかならないではないか。


(15/08/14)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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