Politically Correct





このところ、政治家の「失言」がまたゾロ目立ってきている。政権が長期し安定してくると、段々「タガ」が緩んで与党政治家の「失言」が増えてくるというのは、世の常である。確かに内閣支持率も低下傾向にあるし、ある意味、政権の求心力が弱ってきた分、勝手なコトをほざく連中が目立ってきたということなのだろう。そういう面では、今に始まったことではなく、さほど気にすることではないのかもしれない。

しかし、問題なのはそのバッシングのされ方である。確かに公の場で、公の人が言うべき内容ではない発言も見受けられる。だが、だからといってその内容が間違っているわけではない。同じ内容が私人によりBlogやSNSで語られたのなら、さほど問題にならないレベルの内容がほとんどである。まあ、自身の書き込みが炎上したり、アカウントをブロックされるようになったりということはあるかもしれないが、個人の意見として語ることが悪いような内容ではない。

日本は民主主義国で、言論の自由、思想信条の自由が認められている。そうであるならば、政治家こそ多様な意見を持ち、それをアピールし闘わせることで、有権者の支持を集めるようにしなくてはいけない。そうでなくては、民主主義は機能しない。極端な意見であっても、それが主義主張、政治的主張であるからこそ、自由でなくてはいけないのだ。ところが、日本では政治家はタテマエしか語ることができない。ホンネを語ると「失言」とされてしまう。

とにかく政治的立場を問わず、議論すること自体を圧殺し、その機会を奪おうとする人達が多すぎるのである。というより、永田町のマジョリティーが、そういう人達なのである。すでにこの場で何度も論じているが、「平和主義=護憲」というまやかしなど、そのいい例であろう。ガンジーのように、本当に非戦主義、無抵抗主義ならば、解釈で自衛隊が持ててしまう日本国憲法を許してはいけない。即改憲して、いかなる武力も持てない憲法を作れと主張すべきではないか。

同様に、核武装の是非を論理的に問う議論なしに、核反対を唱えるのは矛盾である。核がキライだ、核が恐い、という精神論、感情論は有り得ると思うが、精神論・感情論では核廃絶はできない。ここが反核運動のおかしなところである。論理的に「核武装の非」を主張できなくては、違う意見の相手を説得することもできない。こういう人達は、すぐに意見を言うこと、議論をすること自体を圧殺しようとする。これでは、反民主主義で、自分達が独裁したいだけとしか思えない(確かにプロレタリアート独裁という言葉はあるが)。

党議拘束などというのも、高度成長時代のバラ撒き行政に対応し、政治家もバラ撒きの窓口としてしか機能しなくてよかったから成り立った、時代の遺物である。もっとキチンと政治的立場や主義主張を明らかにして、それを評価してもらって票につなげるようにしなくてはおかしい。もはや日本は、高度成長期のように、貧しい開発途上国ではないのである。多様な意見が花開き、その中から道が選ばれるようにしなくてはいけない。

「核武装」せよがあってもいいし、「核廃絶」があってもいい。「児童ポルノ解禁」も「マリファナ解禁」も、主張としてはあっていい。まさに市場原理。あらゆる意見に対し機会の平等があるが、それが支持されるかどうかは、マーケットすなわち有権者の意思にかかっている。昨今、投票率の低下が問題にされているが、どの候補もタテマエだけの主張を繰り広げていたんじゃ、投票したくなくなるのも当たり前ではないか。

これでは、民主主義の死である。Politically Correctなんてクソ喰らえ。政治こそ、あらゆる面で言論の自由が担保されなくてはいけない。意見を封殺するのではなく、意見には意見で勝負し闘う。これができなくては、人類の進歩はなくなる。かつては、選挙放送のみ公職選挙法でカットできなかったので、いわゆる「放送禁止用語」を連発する泡沫候補が必ず登場し、話題を集めたものである。そういう時代の方が、よほど民主主義が機能している。

一回ホンネを語ってみればいい。どちらかというと、保守とか「右」とかいわれている政治家のほうが、ストレートに自分の意見を言うし、キチンと違う意見の相手とも議論する傾向が強い。その一方でリベラルとか左とか言われる人ほど、自分の感情論だけを声高に主張し、他人の意見は一切受け付けない傾向が強い。一見不思議な傾向だが、ここにこそ秘密が隠されている。感情論・精神論をやめてキチンと議論できる社会になること。これが世界に通用する日本を築く第一歩であることは間違いない。


(15/09/04)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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