八百万の多様性





日本人の宗教観は、西欧、特にキリスト教圏の一神教的な教義が染みついた人には理解しにくいものがある。そこで、日本人は無宗教であるというような見解が出されることになる。しかし、日本人の宗教観は、世の中の全てのものに神が宿るというアニミズム的な多神教と、「ご先祖様が見ている」という言葉に代表されるような、祖先の神格化による崇拝により特徴づけられる。

この二つが融合することにより、「密かに悪いことをしても、神様はちゃんと見ているのでバチがあたる」とか、「他人に知られなくても善行を積めば、神様はちゃんとそれを評価してくれる」とか、自分の行動を律するような宗教的倫理観が成立する。「唯一絶対の神が、全てを御見通しで審判する」という構造でなくても、倫理性はキープできる。ある意味、これが日本人のモラルを支える基本ということができる。

もっとも、それが強い在地性と直系祖先への崇拝を元にしているだけに、知らない土地で知らない人だらけの中に放り出されると、たちまち「旅の恥はかき捨て」になって、倫理コードが働かなくなるという問題を孕んでいることも確かではある。しかし、近代に入って一神教的な倫理観が輸入されるまでは、この倫理観をベースにウマく廻っていたのは、江戸時代に平和と秩序が維持されていたことが示している。

しかし視点を変えると、「旅の恥はかき捨て」も悪いことではない。かき捨てられるということは、旅先の土地では、自分達が属している共同体とは異なる価値観や倫理性が支配していることを認めているからである。それはとりもなおさず、異質な世界観の存在、共存を許認していることを示している。すなわち、日本人の宗教観である「八百万の神」の世界は、同時に多様な価値観が並存する世界なのである。

現代社会の病根である戦争や差別といった現象は、その多くが世界宗教の主流となっている一神教的な価値観からもたらされたものである。だからこそ、西欧的価値観の社会では、声高にダイバーシティーを叫ばなければならないのだ。しかし日本の場合は、もともと八百万の多様性を認める社会だったのだ。もしかすると、この「八百万の多様性」を世界に広めることができれば、多くの紛争は解決し、人類社会を平和なものに変えることができるかもしれない。

差別自体は悪しきレガシーだ。しかし、排除の歴史、排他の歴史においても、日本の「差別」はやはり一神教的世界とは違う。一神教的世界での排他とは、文字通り相手の存在を否定し殲滅してしまうことである。だから、人種差別とかでも、すぐ相手をリンチにかけたり、問答無用で射殺したりということになる。KKKから、警官による黒人青年の射殺まで、今も脈々と流れるアメリカのダークサイドの歴史をみればよく分かる。

その点日本では「村八分」である。相手を排斥するものの、存在を否定したり、命を奪ったりはしない。間違いなく存在そのものは認めているのだ。普段は自分達に関わりなく生活していてくれる分には、干渉しないのである。別の共同体なら、違うルールが存在していることを許しているのだ。それどころか「二分」が残っている。緊急時・非常時には、相手の存在を認め協力し合える余地を残している。

いかに過去の貧しい時代の話とはいえ、差別は大時代的で決して許せるものではない。しかし、その中にも多様性を認め共存できる方向を目指していたことは、キチンと評価すべきである。これこそが、日本的なダイバーシティーの伝統である。すなわち、それぞれが干渉しあったり、強制しあったりするのでなければ、異質なものとある程度の距離を置きながら共存を図ることができるのである。

残念ながら、近代以降中途半端に西欧の一神教的なドグマを受け入れてしまった人達は、この伝統を捨ててしまったようだ。しかし一部の「リベラル」な活動家を除くと、棲み分けさえできれば、ゆるい多様性を受け入れることができる人の方が、まだまだ日本には多い。インバウンドが儲かるとなれば、それまで敬遠していた外国人観光客もたちまちウェルカムになってしまうのは、日本の良い伝統である。

なら、もっとポジティブに主張すればいい。日本は決して画一的なのではなく、実は多様な価値観がウマく干渉せずに棲み分けている社会だと。外から画一的に見えるのは、その多様な共同体の共通部分をとると、画一的なところしか残らないからである。そう、日本の心こそ、元祖ダイバーシティーなのだ。きわめて許容範囲の大きい、寛容度の高い社会なのだ。これを日本人一人一人が自覚すれば、世界の平和に対してこれほど貢献できる国はない。それを誇らしげに語るべき時がきたのだ。


(15/10/09)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる