失うものがなければ、ルールなど守らない




人は何で社会的ルールを守るのか。それは、ルールを破ることで失う社会的価値があるからだ。ルールを破って得るものと、ルールを破って失うもの。この両者を比較して、マイナス勘定になるのであれば、ルールを破るのは損である。もちろん、その損得は人によって違う。確信犯のテロリストにとっては、自分の命を失っても、要人を暗殺する方が価値があるということもある。

ある意味、常にルールを守ることと破ることを比較し、その損得を考えざるを得ない状況にあるからこそ、ルールの抑止力が効くということになる。ルール遵守へのモチベーションとは、「失うことへの恐れ」である。ということは、失うものがなければルールなど守らなくていいことになる。道義的には誉められたことではないが、人類の歴史を見る限り、そうであったことを事実としては否定できない。

残念だが、弱い立場だったり、貧しい者ほど犯罪発生率が高いのは、過去のデータに基づく限り動かしがたい事実である。いろいろな条件が絡まっているので単純化は難しいが、これは突き詰めれば、失うものがないところまで追い詰められたがゆえの行動だとみることができる。ひもじくてひもじくて、空腹感に耐えられなくなったとき、人は他人の握り飯を盗む。まさに、何を失っても握り飯のほうが価値があるからそうするのだ。

その一方で、持てる者ほど、ルールによって自分の立場が守られるし、自分の持っているものを守ろうとする傾向が強い。俗に言う「金持ち喧嘩せず」である。度が過ぎると「既得権擁護」になってしまうが、これもまた世の常である。しかし、昨今の日本ではちょっと様子が違ってきている。持っている者ほど新しいルールを求める一方、弱者ほど既存のルール順守を求めたがる不思議が跋扈している。

ルールはみんな守るもの、みんなで守っていれば自分を守ってくれるもの。あたかもそれを当たり前のように信じている。はっきり言って、これはおめでたすぎる。まるで幼稚園児のようなナイーブさではないか。そんなものが社会的に通用するわけはない。ましてや、グローバルレベルで通用するわけがない。現状の日本社会においてそれがある程度通用しているとするならば、それはそういう「甘え」を許してくれる優しい人が多いというだけである。

なぜ、日本はこういうオメデタイ社会になったのだろうか。それは、高度成長期の「いつわりの中産階級」主義にルーツがある。最近になって「階層化」が喧しく言われるようになったが、実は階層化は今に始まったことではない。確かに「年間所得」という指標だけで見れば、高度成長期の日本は、諸外国より格差は小さかった。しかしその時代においても、「資産」という指標で見れば歴然とした格差はあった。階層はあったのだ。

そしてバブル崩壊後、「失われた20年」のデフレ社会となった。中産階級の幻想に囚われていたマジョリティーの多くは、ここに至って格差の現実に気付き、皆、守りに入った。高度成長期の「豊かな中産階級」が虚構であった以上、彼らは実は失うものがあるワケではない。最初から「持っていなかった」だけだ。持ってもいないものを、持っていると勘違いし、それに溺れたいただけである。

そして、今でもその幻想に溺れている。失うものがあるわけではないのに、失うことを恐れている。だから、必要以上にルールに頼ろうとする。だからこそ、率先してルールにすがり、ルールを遵守することにより、ありもしない「失うもの」を必死に守るのだ。しかし、その結果「官」の力が強まっているというのは、中産階級幻想が元々官製のものだっただけに、極めて憎憎しい結論である。

豊かな時代に育った人ほど、ここを履き違えている。その点、貧しい時代に育ったジジイは、かつて若かりし昭和20年代がそうだっただけに、「失うもののない強さ」を知っている。だから、70代のジジイの開き直りが顕著に目立つ。包丁ジジイ、焼身ジジイ。ニュースを騒がすジジイが多い。貧しい時代に育った世代は、若い頃から犯罪を繰り返してきた。彼らの世代は、常に犯罪発生率が高かった

戦後の混乱期。ある意味、生きるためには盗みも仕方ない。自分の命を守るためには、「攻撃は最大の防御」とならざるを得ない。1人分の食い物を10人で取り合う時代である。 どうせ飢え死にするんだから、と、命がけで闘う。どうせ飢え死にするのなら、本気で殺し合うことだってできる。貧しいとは、そういうことなのだ。そうして、連中はそういう修羅場の中で育った世代なのだ。

ジジイ達の房総を押さえるためには、欲望の暴発を押さえるシステムが必要である。その一方で若者は、能天気なルールだよりに明け暮れる。しかし、もともとはどちらも失うものがないのだ。それなら一切ルールなどなしに、腕一本、腕力勝負で行けばいい。人間、修羅場になれば火事場の馬鹿力を出すもの。そのぐらい切羽詰れば、日本社会も活力溢れるエネルギッシュな社会になる。このぐらいの荒療治が必要なのだ。


(15/10/23)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる