拠り所




最近気になるのは、この数年、他人の存在や意見に寛容でなく、自分と異質なものと頑なに排斥しようと躍起になっている人が目立つことである。この傾向は、かなり顕著になったいる。特に、若い人に目立つし、SNSなどインタラクティブメディアで目立つ。これは「ウヨク」「サヨク」といったオピニオンの立脚点に関わらず見られるし、多数派にも少数派にも見られる傾向である。

ある意味「安倍首相」が、その実力以上に「スーパーマン」にされてしまっているのは、首相という存在が「仮想敵」にしやすく、いろいろな人達がいろいろな場面で「排斥すべき悪の権化」として叩くので、結果として「スーパーヒール」像が形成され、それがどんどん強化されているからである。皆が叩いてくれるからこそ、その存在が強固なものになってしまうのだ。

しかし21世紀のこの時代の日本社会に、なんでこういう傾向が顕著になってきたのだろうか。その理由は、社会環境の変化に求められるはずである。21世紀における社会のキーワードは、やはり情報化とグローバル化である。情報化が進むことにより、世の中に存在するいろいろなオピニオンが自由に流通し、より簡単に触れることができるようになった。この結果、世の中の基準が多様化し、それらが並存するようになった。

グローバル化が進むと、それまでのようなローカルルールは通用しなくなり、いわゆるグローバル・スタンダードが世界全体の共通ルールになった。グローバル・スタンダードな社会のあり方は、その善し悪しは別として、西欧近代的な一神教をルーツに持つ「絶対的な個の確立」をベースとした社会である。これはある意味、日本古来の社会のベースとなっている「共同体の中の相対的な個」というあり方とは相容れない。

「絶対的な個」を持っている人間なら、多様化する価値観の中でも自分を見失うことはないし、逆に自分の居場所を見つけやすい。そういう意味では、この変化は車の両輪である。スケールメリットを生かした、画一化による効率化が産業社会の基本だとすれば、多様性を重視することで付加価値を高めるのが情報社会の基本である。まさに、21世紀の人類社会が目指している方向はこちらの方であるといえる。

しかし「相対的な個」を共同体の中の関係性の中でしか認識できない人間にとっては、こういう「絶対的な個」の確立を強いる社会は極めて生き難い。こういう環境の中では、自分が何者か、どんどん見えにくくなってゆく。だからといって、自分の中に拠り所はない。これでは社会の中に放り出されても、行く宛もなく風のままに流される存在になってしまう。実は、今の日本にはこういう人達が溢れているのだ。

いや、こういう人達が過半数を占めていると言っていいだろう。かつては「世の中の常識や定説」があり、「世の中の正義や真理」が認められていた。それに従っている限り、マジョリティーとして居場所をキープでき、自分の存在が否定される心配もなかった。もちろんそこからドロップアウトする個性もいたのだが、1990年代の半ばまでは、マジョリティーに従うことが、なにより「寄らば大樹の陰」になっていた。

しかしこの15年ほどで、日本の社会も大きく変わった。気がつくと「風除け」はどこにもなく、個人が世の中の嵐に直接対峙する時代になっていた。だからといって「自立」はできない。その結果、一段と周りを気にする。そして、手近なところでひとまず一番強そうなものを頼る。特にインタラクティブなメディアでは、個を発信しなくては、居場所が作れない。このため、強そうなものにぶら下がり、その劣化コピーとなりたがるのだ。

なんのことはない。結局これも、「甘え・無責任」な日本の大衆の本質が、社会の情報化とともに浮き彫りにされただけなのだ。考えてみれば、こういうグローバル・スタンダードな「個」を強制することのほうが、彼らにとっては苦痛なのである。自立したくないし、責任を取りたくないのだ。それならそれでいいではないか。自立したい人だけが自立し、責任を取りたい人だけが責任を取る。そういう社会のほうが日本には向いているし、余程健全なあり方ということができるだろう。


(15/10/30)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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