ぶつかる若者




少し前に、トイレの入り口とか、ブラインドコーナーで前を見ずに突っ込んでくる若い人と、出会い頭にぶつかるコトが多い話をした。さすがに最近では、そういう危険性の高い場所に差し掛かったときは、もしかすると走り込んでくるヤツがいるかもしれないとばかりに、こっちのほうが警戒して歩みを緩め、様子を窺ってから角を曲がるようになった。向こうが気にしていない以上、こっちが事故防止のためには注意せざるを得ない。

しかし、ぶつかるのはこういう相手が見えないときだけではない。普通に通路を歩いていると、向うから歩いてきたヤツが、良くぶつかってくるのである。前をちゃんと見ていればよけられるし、ちょっと譲れば何事もなくすれ違える余裕があるような通路でも、なぜかぶつかってくるのだ。それも手先がちょっと当るというレベルではない。カバンが腹にドーンとぶち当たったり、肩同士がガチンコでぶつかり合うレベルである。

こういう話になると決まって出てくるのが、スマホや携帯ゲーム機の「ながら歩き」である。しかし、そういう機材を持たず、ちゃんと顔は正面を向いている人もぶつかってくるのだから、それは理由ではない。とにかくぶつかることに対して何も警戒しないし、ぶつかったところで何も思わない若者が増えていることは確かである。そういう感覚の持ち主の方が数としては多いのかもしれない。

とにかく、自分からよけるという行動を取らないのだ。かなりの距離があるところから、相手に視線を合わせ、睨み付けながらこっちが突進してもよけない。そのままぶつかってしまうのである。少なくとも1990年代ぐらいまでは、こっちがスゴい形相で突っ込んで行けば、十戒の海が割れるシーンよろしく人垣がササーッと割れて、にわかに道が広がったものである。いつもそんな感じで歩いていたんで、すいすい人ごみを掻き分けて歩けた。

明らかに、周りに注意を払っていない。もっというと、まわりに注意を払わなくても、何も問題ないし、トラブルも起きない状況になっているということなのだろう。そういう社会で育ったから、周りを警戒しない。街からチンピラや不良が減ったことも、その要因かもしれない。昔は盛り場では、うっかりガンつけられまいとして、かなり注意を払って歩いていたものである。

視線が合ったら、即喧嘩。肩が触れたら殴りあい。それは、まったくもって盛り場の常識であった。だが、ヤンチャな連中も、四六時中喧嘩していたんじゃカラダが持たない。だから誰にでも片っ端から殴りかかってくるわけではない。ある種、街の掟を守って注意を払っていさえすれば、それなりに平和に過ごすことができたのだ。そういう生活の知恵が身についていたから、周りに注意を払うのである。

しかし最近では自分の肩が相手に触れても無視。それどころか、すいませんの一言もなく、そのまま通り過ぎてしまう。まるで、柱か標識にぶつかったかのようである。昔なら、喧嘩になったような状況でも、なにくわぬ顔で通りすぎてしまうし、それで済んでしまうのだ。この「恐いオニイサン」が街からいなくなったというのが、注意力が低下した第一の理由ということができる。

もう一つ思い当たるのが、ここでも最近良く取り上げている、若者の「ルール志向」である。ルールを守ってるから大丈夫。ルールを守っていれば、ルールが守ってくれる。とでもいうような、ルールを遵守さえすれば、大船に乗った気分でいられるという、妙な自負心と安心感が入り混じったような気風が蔓延している。大勢の方にくっついていれば間違いない。これもまた「寄らば大樹の陰」の一種である。

みんなと一緒に行列になって進んでいるのなら、ぶつかろうが何が起ころうが、責任はないし問題もない。そんな感じで捉えているのであろうか。問題なのは、皆で進む行列自体が、ある秩序を遵守しているかどうかということを、誰も担保していないよいう点である。まさに「赤信号、みんなで渡れば恐くない」状態になっているのだ。そういう行列同士がすれ違うと、ドカドカぶつかりまくることになる。

昔はよかったと言う気はないし、基本的には本人がそれでいいのならどうこういえるものではない。しかし、他人の意思や気持ちを察して気を廻す力が弱まっているというのは、あまり褒められたコトではないのも確かだ。世界的にも、そういうところがガサツなのは下流の人とみなされる。まあ、日本人も高度成長で所得だけは増えたが、そういう人間性を高める努力を怠ってきたツケが、ここにきて廻ってきたというところでしょうかね。


(15/11/06)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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