まつりごと




11月22日に行なわれた大阪府知事・大阪市長の同時選挙は、予想通り橋下氏率いる大阪維新の会の圧勝に終わった。この十数年の選挙の流れを客観的に読める人なら、まさに想定内の結果であろう。このコーナーでも選挙のたびに取り上げている気がするが、今の日本の有権者の多数派は、面白い選挙なら投票所に行って投票し、つまらなければ棄権する。面白いイベントに自分も参加したいかどうかが、投票のモチベーションなのだ。

いわば「政治のお祭り化」である。その傾向は、21世紀初頭から顕著になった。政策ではなく、ネタとして面白いかどうかが、投票に行くかどうかを決める。小泉首相の郵政選挙、小沢一郎氏の政権交代など、選挙に強いといわれる政治家は、本能的にその傾向を感じ取り、キャンペーン化してウマく流れに乗ったからこそ大きく山が動いた。その時代においては20代など若者層に顕著な傾向であったが、年月が過ぎ40代以下は皆そういう行動様式になっている。

こういう「お祭り化」「イベント化」は、なにも政治に限らない。たとえばスポーツもお祭り化が進んでいる。プロ野球がBSでしか放映できなくなったり、Jリーグも一時の勢いがなくなるなど、プロスポーツをめぐる環境はかなり厳しくなっている。特に21世紀に入って以降、企業による金銭的支援も難しくなり、チームの経営努力が求められるようになった。テレビ放映や冠スポンサーではなく、観客動員による興行収入が主要な収入となっている。

その一方で、2002年の日韓ワールドカップ以来、「ナショナルチーム」に対する人気は非常に高まっている。WBCの野球しかり。最近ではラグビーワールドカップが記憶に新しい。ナショナルチームが活躍すると、そのスポーツのファンでない人もニワカファンになり、わいわい騒ぎ出す。これも、「ナショナルチームの活躍」が「お祭りとして面白く楽しい」からこそ起こっている現象なのである。

そのに集まって騒ぐヤツらは、けっしてスポーツファンではない。ルールも選手の名前も知らなくていい。騒ぐこと自体が目的である。ナショナルチームが勝利したとき、渋谷の街頭で騒いでる連中にインタビューしてみれば、そんなことはすぐわかる。彼らに向かってスポーツの話をしても始まらない。しかし、騒いでお金を落としてくれる。顧客としては上客である。そもそも祭りとはそういうものなのだ。

神輿担ぎに命をかけるコアな人たちがいなくては、祭りは成り立たない。しかし、彼らはナショナルチームの代表選手のようなものだ。そもそも試合が成立しなくては騒げない。だがイベントとしての盛り上がりは別である。満場の観客がいなくては、イベントとしては盛り上がらない。国情が不安定な国では、サッカーの試合結果が暴動を引き起こしかねないので、無観客試合が行われることがある。これは全然盛り上がらない。

祭りも同じである。沢山の観客や野次馬が集まるから、賑やかになり盛り上がる。コアでハードな神輿担ぎマニアとは異なり、こういう観客はいっぱい酒を飲むし、ツマミも食うので、屋台の露店も繁盛する。そういう盛り上がりあってこそのお祭りである。伊勢神宮の神聖な儀式では、地元経済への波及効果は小さい。やはり人が集まらなくては、話にならないし、祭りにならない。

「政治のお祭り化」は、良い悪いではなく事実なのだ。マーケティング的に、事実を事実として受け入れ、それに合わせたスキームを採用する。それができた候補者や党だけが、選挙で大勝できる。すくなくとも、大多数の国民の側はそう思っている。面白ければ、選挙に行き一票を入れる。これがお祭りへの参加である。そう言えば古語では、政治を「まつりごと」というではないか。所詮はお祭り。割り切って構えれば選挙は勝てる。まあ、ウケるネタを提供できるかが、一番難しいところではあるのだが。


(15/11/27)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる