近代戦争の責任




近現代の大国の戦争は、絶対王政の時代に代表される19世紀までの戦争とは違い、王様や権力者が一人で引き起こすものでないし、引き起こせるものではない。国家が国民国家となっている以上、どんな権力者も大衆を動かすことはできない。実際の事例を事細かに見て行くと、逆に大衆が戦争熱望し、エスタブリッシュメントの反対を押しきって、その 火蓋が切らていることがわかる。

現代では「ファシズムは独裁者の責任」と思っている向きが多いのだが、こと日本においては、こういう考えかたは「戦後思想」の悪影響といわざるを得ない。誰か独裁的な悪いヤツがいて、そいつが戦争をはじめたというストーリーは、あくまでもフィクション、便法である。大衆社会は、誰かが旗を振って動くものではない。大衆の支持がなくては動かないのだ。

独裁者は大衆の意を受け、大衆に支持されるからこそ、独裁的な権力を握ることができる。「民意」が離れてしまっては、長続きしない。そこで権力者は、利権やバラ撒きも含めて、大衆が離反しないように努力する。マーケティングでいえば、発展途上の貧しい社会でこそプロダクトアウトで生産しても物が売れるが、大衆社会となるとマーケットインでは無理なのと同じ原理である。

ドイツでのナチスの台頭も、日本の軍部の隆盛も、貧しい無産大衆が不況で閉鎖的な状況を打ち破ってくれる存在として熱狂的に支持したからである。当時、旧来のブルジョワ市民層に支持された自由主義政党など、ほかの勢力もあったが、無産大衆の数の前には支持を得られたかった。制限選挙が崩れ普通選挙になると、ブルジョワ市民よりは無産大衆のほうが桁外れに人口が多い分、圧倒的に有利になる。

その意味では、ファシズムは紛れもなく、民主主義の産物である。大衆社会化し、あるレベル以上に民意が反映される社会でなくては、ファシズムは成り立たない。それをポピュリズムと言って批判することはたやすいが、ポピュリズム自体が民主主義を前提としていることを忘れてはならない。絶対王政以前の社会では、そもそもポピュリズムは成り立たないのだ。

歴史というのはファクトではない。一次資料としてのファクトはあるが、そこからある主観に基づいてストーリーを組み立てたものが歴史である。オフィシャルな歴史は、次の政治主体が自らの正当性を担保するために創作される、ある種の神話である。いい悪い、正しい正しくないではなく、そういうものなのだ。特に負けた戦争の責任など誰もとりたくない。だからこそ、その責任は誰かに押し付けて済ませたい。

かくして公式の歴史としては、悪い独裁者がいて、戦争の責任はみんなそいつにおっかぶせ、大衆は被害者だったというストーリーになる。しかし民主主義とは、国民全員が責任を持たなくてはいけない政治システムである。権利だけあって、責任がないということはあり得ない。自分は権利だけを主張し、責任はすべて自分が選んだ代表に押し付けてしまうというのは、余りに無責任である。

国を動かし戦争に駆り立てたものが大衆の熱狂である以上、近代国家、特に議会制度が整備された先進国の戦争責任は、ひとえに国民が負うべきものである。自分が選んだ政治家を独裁者呼ばわりして責任を押し付けるなど、言語道断だ。少なくとも本来の民主主義においては、最終的に責任を取ることを前提に権利の行使が可能になるという考えかたであったはずだ。

それが、世界に広がってゆく中でどんどん変形し、「権利は行使するが、責任は取らない」システムになってしまった。これはおかしい。そもそも民度が低く、甘え・無責任でことごとにバラ撒きを求めるような国民には、民主主義制度は適さないのだ。責任主体になれない人を主権者とすべきではない。その観点から見るならば、日本人、とくにリベラルを標榜する人々は、主権者足りうる素養に欠けている。

こういう人間にも、同じ人権を認めてしまうから、戦争に突っ走るのだ。昭和初期の左翼は、無産大衆の熱狂にあわせ戦争にもろ手をあげて大賛成していた。その事実がなによりもその無責任ぶりをよく表している。「甘え・無責任」な人間は、権利はほしいが義務や責任は果たさない。こういう連中に先に権利を与えるとどういうことになるのか。これは20世紀が戦争の世紀だったことを振り返れば、火を見るより明らかだ。


(15/12/11)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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