科学技術と社会的ルール




技術的に可能なことと、ルールでしていいことは本質的に異なる。できるかどうかと、やっていいかどうかは、互いに独立な事象である。ルールとは、社会的に常識・定説とされることだったり、通常は行われないことを明文化したものである。それは当然、過去のスキームに準拠している。時代が進めば、過去技術的に不可能だったことも可能になる。そうなれば、ルールに規定されない事象がつぎつぎと現れることになる。

ある意味、このズレが最も発露しているのが「ハッカー精神」である。先端的な技術者から見れば、技術的にはできてしまうことがたくさんある。技術的な可能なのだから、ルールでそれをさせない方がおかしい。これは、技術という視点からは、いたってナチュラルな発想である。そもそも前例を破るから、技術の進歩が生まれる。ある意味理系研究の探求心を呼び起こすモチベーションには、多分にこのようなハッカー精神が含まれている。

この発想を突き詰めると、やれる技術を持つものには、それを行使する権利がある、という技術至上主義にさえ陥る。ある意味、ハッカーの精神的支柱となっているのは、この技術至上主義である。ハックできる技術がある技術者ならハックしてもいい。ハックされるのは、ハックされてしまうようなプログラムを作ったプログラマの技量が足りないからで、技量が上の人間ならハックしても構わないし、ハックすべきである、という考えかたである。

尺度が技術視点のみになっていて、社会倫理的な軸が消えてしまっているのが特徴である。しかし、これは決して特異な例ではない。自然科学の研究者や工学系の技術者には、あるある程度共通して見られる傾向である。これを突き詰めると、サリンガスを作れるものはサリンを、原爆を作れるものは原爆を使っていい、という論理になる。オウム真理教に入信した化学者が、何のためらいもなくサリンガスを作って使用したというのは、このようなメンタリティーがベースにあったからだ。

このような考えかたは。ある種マッドサイエンティストのようで無謀に見えるが、決して特異な発想とは言い切れない。科学技術そのものの中にビルトインされている、ある種本能的なものと見た方がいい。それが典型的に現れるのは、近代の戦時である。戦争になると、技術開発が進み、科学技術が飛躍的に発展する。それは、兵器開発のために莫大な資金が投入されるためでもあるが、技術の中には倫理性がないがゆえに、技術開発ができるなら悪魔にでも魂を売ってしまうという科学者の本質を示している。

そいうい海では、科学技術に倫理性を求めるほうが間違っているのだ。そんなことを求めていたのでは、科学技術の進歩はない。倫理性は、科学の外側でキャップを嵌めれば良いだけだ。科学者自身は、善悪判断をする必要はない。自分が思うところに従って、わが道を追求することこそが、科学技術の進歩に繋がる。しかし、その成果をどう生かすかは、科学者・技術者に任せてしまってはいけない。過去の問題は、全てここのところで起こっている。

日本のメーカーは、技術力はあるモノの商品開発力に劣るため、単にモノを「作る」コトしかできず、新たな価値を「創る」コトができない。それは日本メーカーが、商品開発まで技術者が行なう「プロダクトアウト」にオプティマイズした、組織や開発プロセスから抜け出すことができなかったからだ。商品開発は、技術者ではなく、マーケッターが行なうものなのである。しかし、ユーザーニーズを汲み上げて商品開発を行う職能は、日本の製造業ではほとんど発達することがなかった。

問題はこれと同じである。科学者は、倫理性など構わず思うがままに研究開発を進めるべきである。しかしその技術をどう使うかは、科学者とは違う視点を持つ人が判断しなくてはならない。この分業ができていれば、何も問題は起きない。「名選手必ずしも名監督ならず」である。にもかかわらず、叩き上げの専門家がその部門のマネージメントになってしまうところに、日本の不幸がある。そろそろ、考え方を変えなくては世界に通用しない時代になっていることに気付くべきだ。


(15/12/25)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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