バラ撒きの理由(ワケ)




ある意味「公的予算のバラ撒き」が起こるのは、バラ撒いて利権化する方も、バラ撒かれて既得権化する方も、どちらにも責任がある。ある意味、撒く方も撒かれる方もそれなりにオイシイ思いをできるからこそ、「世に盗人の種は尽きまじ」とばかりに次から次へと理由をつけてバラ撒きが行われることになる。しかし、バラ撒きがおこるのはこの両者の利害の一致だけが要因ではない。

もっと根源的なところに問題があるからこそ、バラ撒きを撤廃しようと思ってもできないのである。それは、公的な予算配分が本質的に持っている問題である。官主導で行う限り、誰から見ても正当性があるような論拠がない限り、誰かに集中的に公的予算をつけることはできない。従って官主導の予算配分は、ある条件を満たした相手には、平等に予算がつけられるような仕組みになってしまう。

おまけに、官庁組織はあくまでも肩書きで仕事を行い、個人間の代替性が重視される。特定個人のパーソナリティーに依存するような政策実施は、民間企業ならいざ知らず官庁ではあり得ない。判断に対して個人の視線が入らない以上、「審美眼」を持った判断は不可能である。実はビジネスではこの「審美眼」が極めて重要なのだ。ましてや、将来の可能性に対してリスクを背負った上で「投資」することなどなどあり得ない。

これはとりもなおさず、案件間にプライオリティーがつけられないことを意味する。 プライオリティーがつけられないまま、資金を配分しようとすれば、悪平等なバラ撒きにならざるを得ない。すなわち、官庁が公的資金を民間に配分するとなると、その形態は「バラ撒き」になってしまうのだ。それを利権化するのは官僚の悪知恵だが、バラ撒き自体は、官庁が扱う公的資金が必然的に背負う宿命なのである。

対照的なものとして、篤志家の寄付や援助を考えてみよう。巨額の資産を持つ篤志家が寄付や援助を行うのは、ある意味CSRではないが社会的責任・社会的義務を果たすためである。しかし、その相手と額を選ぶ際には、理念や美学がある。ここが大事なのだ。篤志家として寄付を行うような人には、哲学や審美眼がある。そして、経営者としての信念がある。だから相手にプライオリティーがつけられるのだ。

ここで思い出されるのが、政府の支援策により、フランス映画が衰退してしまったことだ。フランスでは国策としてフランス映画振興策を実施し、資金的な支援を行った。これは悪平等のバラ撒きではなく、官僚が変な理屈をつけて「芸術」を評価し、公的支援を行う対象を決めてしまう精度であった。官僚組織では創作ができない。秀才がいくら集まっても、芸術の評価などできるわけがない。

こういう制度で行く限り、金をもらうためのロジック構築の得意なところにばかり金が集まり、本当に支援すべき作品には金は流れなくなってしまった。フィルムは完成するが、そんな「作品」は誰も見たくないし、面白いとも思わない。感動も共感も生まない。これでは員数合わせというか本数合わせ、物理的に作った実績だけをカウントして評価する「ハコモノ行政」と何ら変わりがないことになる。

一回税金として官が吸い上げ、それを再び配分するというやり方は、余りに無駄が多い。まず、官が配分するというプロセスを取る限り「悪平等」にならざるを得ず、広く遍くの「バラ撒き」になってしまう点。次に、官僚による中間搾取というか、官僚たちが自らの利権分としてそこから上前をはねてしまう点。最後に、税金という一見中立的な徴収方法を取るため、「金の出し手の意思」が全く反映されなくなってしまう点である。

これを改善するには、欧米式にNPO的な資金配分としての「寄付」を重視し、資金再配分の主要な手段として位置付けることがなにより必要である。「寄付」であるならば、税金とは違い、その金額を拠出する人が、自分の判断、自分のリスクテイキングで相手と額を選ぶことができる。「審美眼」がある人ならば、その寄付金はさらに有効に活用されることになる。直接の資金移動なので、天下り官僚が上前を取ることもない。

官の組織、官の意思が入るから、コトがおかしくなるのだ。税金として集めず、義務として出す人から受益者に、民から民へ直接資金が移動すれば、全ての問題は解決する。それなら、そもそも官僚組織もいらなくなる。そして寄付金は税金を支払ったものと同値とみなして、寄付金の額だけ納税を免除すればいい。官から民へとは、こういうことなのだ。そもそも豊かで安定した社会には、官はいらないのだ。


(16/01/08)

(c)2016 FUJII Yoshihiko


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