ものごとは表面的にとらえてはいけない




世の中のデジタル化・ネットワーク化が進むとともに、トランザクションがネットワークの中で完結するようになり、すべてのデータがログとして記録されるようになった、俗にいう「ビッグデータ」の時代である。確かに、定量的にとらえられる全てのファクトが、データとして「そこ」に記録されているのは間違いない。だからといって、ビッグデータをぶん回せば、たちどころに何でもわかるというわけではない。

特別な問題意識なしに、単純にビッグデータを統計処理しても、そこから出てくるのは「当たり前」の答でしかない。ある意味、世の中の全てのrファクトを押さえている以上、単純にそこから出てくるものは、世間そのものであり、世の中の常識・定説以上のものにはなりようがない。これは、ビッグデータがミーシーに全数を把握するものになればなるほど、当然のように結果も現実そのものに限りなく近づく。

統計データというものが、現実のファクトを数値化して示すものである以上、漠然と全体像を見てしまっては、なんら新しいファインディングは得られないのだ。これは、統計や調査の基本である。当たり前のことを当たり前に示すだけなら、高い金かけて調査・分析する必要性も意味もない。しかし、世の中の調査の多くが、結果として「当たり前」の確認で終わってしまっているのも、これまた事実である。

実験計画法がわかっている人ならピンと来るだろうが、実験や調査は、とりあえずやってみてなんか出てきた結果から答えを出そうと思っても、そうは問屋が卸さないものである。はじめに仮説があり、それを証明できるような実験や調査を組立て、その結果により検証できてはじめて、やる意味がある。実験や調査は、それ自身が目的ではなく、あくまでもより大きな目的のための手段に過ぎない。

このためには、事前の仮説構築が極めて重要になる。そして、仮説を構築するためには、定説や常識と異なる、いわば「裏読み」ができることが大前提になる。裏側が見えてはじめて、実験したり調査したりする意味が生まれる。ものごとを表面的にとらえるのは、決して科学的態度とは言えない。誰もまだ気づいていない、物事の裏に潜むメカニズムを推測し、よりアカウンタブルな摂理の捉え方が構築できなくてはいけないのだ。

たとえば、世の中にはホモセクシュアルな人や行動を毛嫌いし忌避する、「ホモフォビア」と呼ばれる人達がいる。こういう人達はともすると、非常に攻撃的になることもある。こういう人達の心理を考える際、ホモセクシュアルが倫理的に許せなかったり、、生理的に気持ちが悪い人なのだろう、と思いがちである、しかし、それは非常に表面的な捉え方である。人々を区分する断層は、そこに通っているわけではない。

実は、そもそもホモセクシュアルには全く関心がなく、そういう人達は勝手にやっててくれ、という人々の方が、世間には多い。すなわちホモセクシュアルは自分とは関係がないし、関心もなくどうでもいいという人が、圧倒的多数なのだ。こういう人達は、ある意味ホモセクシュアルを深く関係性を持っている「ホモフォビア」にはなりようがない。そもそも関心があるから気になるし、アンチになるのだ。

そういう意味では、ホモフォビアの人達は、ホモセクシュアルの当事者以上に、ホモセクシュアルに深く感心を持ちコミットしている。では、どういう人が執拗にホモセクシュアルを否定するホモフォビアになるのか。実は、自分自身同性に惹かれる傾向があるが、必死にそれを我慢していたり、自ら否定しようとしている人は、あっさりカミングアウトしてその世界に入っている人が悔しくて仕方ない。

自分はこんなに我慢しているのに、いいことしやがって、という妬みが積み重なると、相手に対し非常に攻撃的になる。そこで激しくバッシングすることになる。あるいは、自らを厳しく律するかわりに、自分がやりたくてもできないことをやっている人たちを厳しく攻撃することで、相手を否定して自分の境遇を正当化したい。だから極めて激しく相手を攻撃し否定する。

このような「したくてもできない」人達が、一番攻撃的になり、相手を激しくバッシングすることになる。根っこが一緒だからこそ、憎しみ合いも一段と強まる。すなわち、新左翼過激派の内ゲバのようなものである。一般人から見れば、どっちがどっちだかよくわからないし、そもそもどこが違うから攻撃しあっているのかも分からない。いや、そういう些細な違いだからこそ、相手を絶対に許せなくなるのだ。

本当の構造は、ホモセクシュアルに関心のある人、すなわち「ホモセクシュアル+ホモフォビア」と、ホモセクシュアルに全く関心のない人、という構図で捉えなくては意味がないし、理解もできない。表面的な対立構造しか見えていない人には、本質的な構造が見えなくなってしまう。わかりやすさのためにいささか極端な例をあげたが、意見や志向を等場合には、何事においてもこのようなより大きな構造を把握することを考慮しなくてはならない。

つまり、ファインディングスが先になくては、どんな実験も調査もマスターベーションになってしまうのだ。そして、そのファインディングスを生み出すものは、直観と洞察力しかない。つまり、「見えていない」ひとがいくらビッグデータを扱おうとしても、当たり前の結論しか出てこない。直観的に「見えている」人がビッグデータを武器にするからこそ、意味があるのである。ものごとの本質を見抜ける人は、ビッグデータの時代だからこそ、その価値が一段と高まるのだ。


(16/01/15)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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