多様性の受け入れ




価値観の多様性を受け入れるには、勇気と信念がいる。自分の意見に確固たる自信がある人しか、他人の意見を受け入れることはできないからだ。そうである以上、多様性を受け入れられない人の方が多数とならざるを得ない。そして自信がない人ほど、多様な意見が存在することを認められず、自分と違う意見の相手に対しては、その存在自体を否定しようとする。

多様性とは、違いを認めることである。相手が自分とは違うと認めつつ、相手の存在を認めるから多様性なのだ。自分と違う人たちがいてもいいと認めるためには、自分と違う人たちが存在しても、自分の意見や考えは影響をうけず、微動だにしないでいることが前提となる。このためには、自分の意見をしっかり持ち、ぶれることなくそれを主張できることが必要になる。

しかし、世の多くの人はそもそも自分の意見を持ってない。ここに最大の問題があるのだ。ニュース解説者の池上彰氏の人気が高い。多くの人が支持しているが、それは池上氏の解説を聞いて、わかった気になりたいからだ。ここで大事なのは、わかったのではなく、わかった気になっている点ある。ぶっちゃけて言えば、わかった気にしてくれるから好きなのである。

池上ファンは、決して自分で本質を発見し、それを理解したわけではない。ただ話をうのみにしてうなずいているだけで、理解すらしていない。それが、日本人の大多数である。それは別に問題でもなんでもない。そもそも自分の意見を持つということは、それほど難しいことなのだ。理解しろといっても無理。それはそれで事実として受け入れることが重要である。

そうなると、個々人とメディアやジャーナリズムとの関係も、自分の意見を持つ人と持てない人とで、異なることになる。自分の意見を持っている人は、テレビや新聞も一つの情報源に過ぎず、それが正確かどうかは自分の意見を元に判断する。ある意味、多様な意見を認めるということは、容易に信じないということにもつながる。外部の意見に容易に影響されないからこそ、自分の意見なのである。

その一方で、自分の意見を持っていない人は、マスメディアが言っていることに影響され、右往左往しがちである。でもそれは、自分に信念がなくブレているだけであり、言われたことを信じてしまうおめでたい人なのだ。何かが起こると、すぐ「ジャーナリズムがあおるから」どうこうと主張する人は、けっきょく彼等自身が自分の意見を持っていないというのと同値である。

教科書や学校も同じである。自分に自信のある人は、教科書に載っていることや、学校で教えてくれることをうのみにはしない。教科書に何が書いてあろうと、それにストレートに影響されることはない。先生が何を言おうと、自分の意見があれば、馬の耳に念仏である。教科書に書いてあることを端から信じたり、先生の言うことを忠実に守るのは、モノを考える能力を持たないからに他ならない。

従って、多くの人にとって、自分が主張している「意見」は実は借り物である。誰かが言っていること、どこかに書いてあったことを、そのままオウム返しに主張しているに過ぎない。だからこそその内容に自信がないし、なぜそうなのかも必ずしも理解していない。反論されると言葉に詰まるしかない。だからこそ、自分と違う意見は受け入れられないし、自分と違う意見の人の存在自体を否定したくなるのだ。

どんな組織でも、大将は器が大きい。そういう人は、同じように相手も器が大きければ、互いにその存在を認め合うことが多い。古今東西を問わず、互いにその存在に一目置くライバルの両巨頭という組合せは多い。問題はザコである。ザコほど自分の意見を持てず、組織にぶる下がることでしか自らの存在を主張できない。こういう人達にとって、自分を守るものは組織の「権威」しかないからだ。

しかし、「権威」というのはブランドイメージと同じで、絶対的なものではない。不祥事が起きるとブランドイメージが一瞬にして損なわれるのと同じように、「権威」も「ハダカの王様」になってしまえば、一瞬で失墜する。ましてや、「敵」は最初から権威を認めていない。こういうところには、「ザコ」は敏感である。そして、圧倒的に数が多いのも「ザコ」なのだ。

こういう「大多数」の人達は、おいおい自分を守るためには、自分と違う意見の相手は否定するしかなくなる。だから、世の中には意見の多様性を認められる人は少ないのだ。他人から何か言われても、頑として自分の意見を貫ける人だけが、他人の多様な意見を受け入れられる。それができる人は、それだけでひとかどの存在なのだ。そして、多くの人はそれができない。まあ、単に「肝っ玉が小さい人達」ともいうのだが。


(16/01/22)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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