買い被っちゃいけない




なにか問題が起きると、すぐ「昔はよかった」とか「退化した」だの「劣化した」だの、過去と比較することで、現状を否定する言い方を取る人が登場する。おまけにそう言う論調が、意外と支持を受けたりする。ごくごく表面的な現象だけを捉えれば、確かにそういう面がないわけではない。しかし、それはそう見える部分があるだけで、「だから昔の方が良かった」ということにはならない。

表面的にそう見えるのは、一つには、いつも言っているように昔の日本は貧しく生きて行くのに精一杯で、余裕がなかったからである。良かったわけでも、品行方正だったわけでもなく、食いつなぐためには、セコい悪さを考える余裕すらなかったのだ。その一方で、本当に食うに困ってせっぱつまって行う強盗や殺人などの凶悪犯罪は、今よりよほど多かった。それは、決して良い社会ではない。

よく「犬が人間を噛んでもニュースにならないが、人間が犬を噛めばニュースになる」といわれるが、まさにそれである。最近凶悪犯罪のニュースが大きく取り上げられるのは、殺人とかあまり起きなくなってしまい、人を殺しただけでニュースになるようになったからである。終戦直後の混乱期など、喧嘩から相手を刺殺するなんてのは日常茶飯事なので、事件にすらならなかったということを、心にとめておくべきだ。

もう一つは、昔の日本人は貧しかった分、上昇志向が強くて必要以上に見栄を張っていたからである。本音では面倒くさいし、イヤなことであったとしても、格好つけたい気持ちの方が強かったので、あえてそれをやることを厭わない。本当はライス付きの定食を頼みたくても、パンを頼んでしまう。よくわからないし、見づらくても、映画を原語・字幕版で見る。

1960年代ぐらいまでの日本人は、コンプレックスの裏返しで、こういう「見栄張り」「ええ恰好しい」が行動の強いモチベーションとなっていた。当然、人間の質というところでも見栄を張るようになる。当時はまだ階級社会の残り香が残っていた時代なので、「上品ぶる」ことができた。こういう格好付けをする人が一定数たし、こういう人はある種ホンネをあらわにすることがないので、外見的にはきちんとして見えるのだ。

過去の実態としては、こんなところである。昔の日本人は、決してホンネでは品行方正なワケではなかったし、倫理観が高かったワケでもない。やりたくても、やる余裕がなかった。やりたくても、周囲の目が厳しくてできなかった。それだけのことである。それが豊かで民主的な社会になり、自分を偽ってタテマエの中で生きるのではなく、ホンネを堂々と出せるようになったということである。

そういう中で、「昔はよかった」といいたくなる人は、現状に満たされない不満があるが、それなりに既得権もあるので、簡単に現状を否定するワケにもいかない人達である。だから、現状をストレートに批判せずに、その代償行為として過去を賛美する。そういう人達が自分を正当化するためによく使う屁理屈には、「伝統への回帰」というのもある。「昔はよかった」節と構造は似ているが、こちらは特定の人間の行動ではなく、社会規範的なものに対して使われることが多い。

過去のファクトを知っていれば、時代を通して一貫するものなどないことはよく理解しているだろうし、歴史が極めて主観的で、絶対的な基準がないことも充分に承知しているだろう。だから、わかっている人は伝統などという抽象的な表現はとらない。私自身がそう主張しているように、「階級社会が機能していた19世紀の明治憲政期の政治システムに戻せ」などと、具体的なリファレンスを示す。

実現したいと思っている制度や社会システムを明確に持っているワケではない。だからこそ、抽象的で実態のない伝統なる観念を持ち出す。過去のある時代のスキームへの回帰はできるし、それは立派な主張である。しかし、観念への回帰などやろうにもやりようがない。これでは、現状への不満から駄々をこねているのと何ら変わらない。極めてレベルのの低い自慰行為である。

結局、本質は何も変わっていないのだ。不倫がどうのこうのと倫理論を振りかざす人は、源氏物語を読んで出直してこい。そもそも核家族の一夫一婦制というのは、日本の社会から生まれた家族制度ではない。西欧キリスト教起源のものである。源氏物語に描かれる、母系制の家族制度の方が、よほど日本の風土や歴史に根差している。平安時代の家族制度に戻せばいいではないか。歴史や伝統を重視するとは、こういうことを言うのだ。


(16/02/19)

(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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