成果を測る基準




こと現代の日本においては、そもそも「成果を測る基準」がわかっていない人が多い。基準がわかっていても、実際にそれを使って成果が測れるかどうかは、成果を測る人間の能力に大きく依存している。いわゆる「上司がバカだから」というヤツである。しかし、その理由を詳しく調べてゆくと、成果を測るメジャーがうまく使えないのではなく、そのメジャーの存在自体に気がついていない事例があまりに多いことに気付くだろう。

それは、自分が何を目指して何をしているのかが、自覚的にわからない人が多いからである。自分で自分の道を考えていない。誰かが作った目標を基準に、それを真似ることでしか自分の道を見いだせない。周りを見回せばわかるが、そういう人達の方がマジョリティーである。よく人気スターなどに感情移入し、成り切ってしまう人がいる。本人にはそれなりの「達成感」はあるのかもしれないが、それは成果としては評価できない。

そこでしばしば登場するのが、成果のかわりに「頑張度」で評価しようというメソッドである。日本社会においては、会社でも学校でもあまりにそういう事例が多い。このため、「頑張り」こそが活動の成果であると信じている人も多いだろう。だが「頑張りました」は成果ではない。成果を生むためのプロセスで、自分がどういう風にやったかという経過段階の状況でしかないのだ。

途中の過程で頑張って、その結果、実力以上の成果が上がってはじめて、その成果が評価されるのである。いくら頑張っても、成果がなくては評価しようがない。これが本来の姿である。昔の小学校の先生が押すハンコには、「大変良くできました」「もっとがんばりましょう」というのがあった。だが、「大変良くがんばりました」というのはない。しかし、世の趨勢はそれを許してしまっている。

ただ、誰もきちんとした成果を上げていない組織では、成果で評価しようがないのも確かだ。高度成長期の日本においては、類まれな右肩上がりの追い風経済に乗って、多くの会社で社員の評価のしようがない状況が現出された。ベースとなる経済自体が想定外の成長率で伸びているので、「気楽な稼業」のサラリーマンが最低限の仕事だけしたのでも、予算を達成しそれ以上の数字を実現することができた。

これでは、結果の数字は成果とならない。その結果、「気楽な稼業」で遊びながら数字をあげたのか、必死に頑張って数字をあげたのか、そのプロセスの違いで評価しようという動きが強まった。ここに「頑張り」を評価の基準とする、奇妙な日本独自の習慣が始まった。そして、昭和30年代からバブル期まで、途中の踊り場はあったものの、30年以上にわたって右肩上がり経済は続いた。

ここに至って、会社いる人間は全て「頑張り」を基準に評価するやり方しかいない状態になった。それとともに、悪弊は伝統となった。しかし、戦時体制になる前の1930年代までの日本の企業においてはガバナンスがあったし、きちんとした成果評価もなされていた。それは階級社会型ともいえる19世紀ヨーロッパ型の組織秩序をベースとしており、支配階級ともいえるキャリア層は、ノンキャリアの成果を評価できる素養や教養を持っていた。

これを端的に示すのが、太平洋戦争中の米軍海兵隊の対日戦用のマニュアルである。その内容は、以下のようなものである。日本陸軍と戦う場合、狙うのは隊長の将校だけでいい。兵隊を撃っても弾のムダである。日本兵は兵隊としての技量は優秀ではあるが、ものを考えて行動することができない。隊長が指示を出せなくなれば、兵隊単独では戦うことができない。従って、隊長を失うと即戦闘行動は不可能となり、戦力としては壊滅する。

日本陸軍の士官教育が、極端に戦術論に偏り、戦略論を欠いていたことはよく指摘される。しかしその分隊長たる士官は、戦術的には最適化した指令を出し指揮をとることは可能であった。さらに、平民出身の士官が多くなっていたとはいえ、明治以来の伝統で、武士的な教養や倫理観を持った将校が多かったことも確かだ。それは、19世紀的に将校が切っ先を切って突撃する部隊が多かったことが示している。

このように、明治期から1930年代ぐらいまでの日本の組織においては、責任を取るべき人間と、そうでなくていい人間とが明確に分かれていた。責任を取る人間イコール評価する評価する人間である。このスキームが生きている間は、成果をキチンと評価することが可能であった。だが、40年体制の確立と共に、この責任を取る人達が消えてしまった。あたかも、隊長を狙撃されて失った日本軍の部隊と同じである。

そう考えると「頑張り」を評価するスキームは、戦後につながる40年体制の無責任社会化がもたらした結果と考えることができる。30年間の「高度成長期」、そして20年間の「失われた時代」。この半世紀を通して培われた「頑張り」という「過程の評価」は、日本社会に深く刻み込まれている。しかし、そのルーツが明らかになった以上、40年体制的な価値観が崩れれば容易に変化は起こり得るのだ。


(16/02/26)

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