いまさら放送法?
このところ一部政治家の発言と、それに過剰反応しているベテランジャーナリストとの間で、放送法に関する議論がまたまたかまびすしくなっている。80年代の「ニューメディアブーム」の頃から、「放送と通信」「インフラとコンテンツ」といった法制度的な枠組みに関する議論に関わってきた身としては、もう議論しつくされて結論が出ていることであり「何をいまさら」という感じが強い。
結論から言ってしまえば、「コンテンツはインフラを問わない」のである。昨今、テレビのニュースでも、事件現場に居合わせた人がSNSに投稿した発生直後の現場の映像が使われることが多い。このような映像の使われ方を番組という視点ではなく、その現場映像のフッテージを主語にして考えれば、コンテンツがより多くの視聴者を持つインフラへと転送されて「拡散」しているだけである。
コンテンツが見られるという意味においては、twitter上で見られようが、NHKニュースで見られようが、全く等価である。それはまた、受け手としての視聴者にとっても等価であるということを意味する。世の中のコンテンツ環境は、この30年に渡るメディア・コンバージョンの波により、すでにこのように変化してしまったのだ。法律で規定した放送だけが、特別なコンテンツという発想が、すでに上から目線でおかしい。
インフラが放送法で規定される放送であっても、電気通信法で規定される通信であっても、視聴者にとっては何も関係がない。こんなことは、30年前から議論され解っていた。そして、視聴者にとってのコンテンツの価値とは、それが時間を費やすに値するぐらい「面白い」か「楽しい」かにかかっている。「放送」の番組に価値や強制力があるというのは、昭和のテレビ創世記の記憶に基づく幻想である。
確かに、放送は当れば大量の視聴者を獲得できる。しかし、その分コンテンツは常に市場原理に晒されている。面白ければ見られる。だがつまらなければ、ザッピングかスイッチを切るしかない。ザッピング先も地上波やBS、CSだけではない。さらに、今の視聴者はマルチスクリーンで視聴しているのが常識なので、別の通信系インフラから来るコンテンツとも常に競争にさらされている。放送コンテンツとは、そういうものだ。
放送番組の制作現場では、この競争を強く意識している。だからこそ、まず比較的ローリスクな深夜枠で新しい企画をオンエアし、そこで当るとその企画をパワーアップしてプライムタイムに移行する。また、コンテンツとして二次利用・三次利用が可能な番組は、通常の地上波ではなく、このような競争原理から比較的自由でいられるBSを使ってオンエアし、二次利用以降でのリクープを図るビジネスモデルを採用する。
今や放送番組といえども、視聴者の琴線に触れなければ、影響力は皆無である。放送が輿論を作るのではない。輿論というか、人々が面白いと思う気持ちが先にあり、そこにフィットしたコンテンツだけがヒットするのである。これは、実際にコンテンツを作っている人ならば、強く実感しているはずだ。テレビ番組の内容を信じる人も、団塊世代より上のシニア世代だけだ。テレビとは「ヤラセでも面白い方がウケる」メディアなのだ。
そう考えると、幻想の正体も明確になってくる。かつて放送番組が希少だったのは、免許のせいではない。制作にコストがかかりすぎたからだ。アナログの時代においては、プロユースのクォリティーを確保するためには、カメラにしろVTRにしろスタジオ機材にしろ、極めて高価な機材を使う必要があった。また、それらアナログの機材を使いこなすには、卓越した経験とセンスが求められるため、スタッフのコストも非常に嵩んだ。
だが今やデジタルの時代になり、民生用機器でも充分なクオリティーは担保できる。というより、地上波の番組でもEOSとかで撮ってるのがたくさんある。ましてや、スマホでも4k映像が撮影できる時代に突入した。この時点で、旧来の放送局モデルの優位性は失われている。それでもまだ新聞とは違い、放送局の周りにはコンテンツ制作に関する才能を持った人材が集まっている。これがあるからまだビジネスが成り立っているのである。
そう、放送局の強みは、強力なコンテンツ制作者であるところにある。そして、コンテンツをマネタイズし制作費をリクープする手段を自ら持っている点にある。これも、30年来繰り返してきた議論だ。そうである以上、電波などいらない。コンテンツは自力で受け手の元に届いて行くものだ。免許など返上してしまえばいい。送出関係のコスト負担がなくなれば、放送局の経営もずいぶん軽くなるだろうし。
(16/03/04)
(c)2016 FUJII Yoshihiko よろず表現屋
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